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織田信長【名言】

武将データ
なまえ おだ のぶなが 織田信長Wikipediaより
出身 尾張国
家紋 織田木瓜 織田木瓜
主家 織田家
享年 49歳(1534~1582)

織田信長の名言

是非に及ばず

意:(本能寺の変において、謀反人が明智光秀と知り、)良いも悪いもない。戦うしかないのである。

 

 

織田信長ってどんな戦国武将?

戦国三英傑の一人、織田信長です。戦国武将ランキングでも1位を何度も獲るほど、有名な戦国大名です。常識に囚われずに型破りな行動をしたことが良く知られていますが、青年期までは苦労が続く人生を歩んでいます。

 

尾張の大うつけ

信長は父信秀と土田政久の娘との間に生まれた子供です。当時は織田家が色々と分かれており、尾張国の下四郡の守護代である清州織田家の分家であり、傍流の出自でした。しかし、父信秀の商才と、武功が高く、勢力を拡大している最中の誕生でした。

2歳になると、父から那古屋城の城主を任されます。幼少期~青年期は、お風呂のときの湯帷子を普段着とし、毛先がツンツンのまげの姿で町中を歩いていたことから、人々から城主ににつかわしくない大うつけ(バカ者)呼ばわりされていました。

特に、そう言われたことになる有名なエピソードとして、父、信秀が死に、その葬式にて、位牌に向かって焼香を投げつけたというものがあります。

 

結婚と家督相続

少し時を戻して、父、信秀が存命の時。敵対していた美濃国、斎藤道三との和睦が成立し、その証として、道三の娘,濃姫と信長の結婚が決まります。こうして、信長は、父の継承者となる可能性をグンと上げます。この三年後、父信秀が死に、家督を継ぐことになり、上総守信長を自称するようになります。

 

長く苦しい尾張統一

戦国大名の中で、一番早く天下を取ったとされる人物ですが、実際の道のりは、とても険しいものになります。自分が生まれ育った尾張国を統一するのでさえ、大変な道のりとなります。

まず、家督をすんなり相続できておりません。信長には弟の信勝がおり競争者となっています。そして、宗家である清須織田家を始め、上四郡の守護代、犬山の織田信清とも戦わねば、統一することが叶いません。

 

そんな前途多難な尾張統一の火ぶたが切られることになったのは、義父である斎藤道三の死です。息子の斎藤龍興が起こした反乱により、一番の後ろ盾を失くすことになります。

道三が死ぬと、家臣であった、林秀貞や柴田勝家らが弟の信勝を擁立しようと挙兵します。稲生の戦いと呼ばれ、これを信長は制します。母の仲介により柴田勝家は赦免され、これに信長に心から仕えるようになります。(後にもう一度弟が反旗を翻すが、勝家の密告により、誅殺している)

そして、犬山城の城主の織田信清と協力し、上四郡の守護代である信賢を破ります。

 

これをもって尾張の大部分を信長の領地としますが、隣の三河国と接している東部は今川の領地であり、犬山がある北部は信清の領地でした。このとき1559年であり、信秀が死没した1552年からすでに7年以上経っております。

 

そんな尾張の統一もまだままならない時期に、今川義元が尾張国へ攻めてきます。

 

桶狭間の戦い

まだ尾張も平定していない信長に、他国からの進行を防ぐ戦力などあろうはずがありません。しかも相手は大大名の今川義元です。織田側の戦力はおよそ数千。今川方は1万~4万と言われています。軍議で信長は静寂を貫き、家臣から諦めたのかと見放されつつあったその時、信長が「敦盛」を舞います。

人間(じんかん)五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。ひとたび生を享け、滅せぬもののあるべきか。

とても有名なエピソードであり、死地に赴く前の舞であったことから、これを辞世の句とする説もあります。

ちなみに歌意はというと、

人間界の50年なんて、天界では1日ぐらいにしかならないのだから、人間の一生は一夜の夢のようなものである。

というものです。あくまでも、敦盛の一節を舞ったものなので、続きをもう少し訳すと、

これが悟りであると考えないのなら、これ以上愚かであることは言うまでもない。

となります。

腰を据えた人生観、死生観から数刻。

13時。視界も途切れる豪雨が降り注ぎます。これを機と見た織田軍が、今川本隊に急襲を仕掛けます。三百ほどの親衛隊に囲まれていた義元でしたが、度重なる攻撃に破られ、織田軍の馬廻の一人、毛利新介によって討ち取られます。大将を失った今川軍は戦意を喪失。寡兵で大軍を打ち破った、織田軍の大勝利となりました。

 

尾張統一と足利義昭

桶狭間の戦いから5年後、昔は共に戦った織田信清ですが、信賢の旧領地の分配でもめており、ついに信長に反旗を翻します。これを破り、1565年にようやく尾張国を統一します。

 

この桶狭間の戦い前後で、色々燻っていたところが美濃国です。道三が亡くなってから、斎藤家とは仲が悪くなっており、攻防を続けておりました。斎藤家へのけん制の一つに、北近江の浅井長政お市の輿入れもあり、攻守の強化に努めていました。

 

そんな折、足利義輝が三好三人衆に殺されます。弟の足利義昭は殺害を免れ、近江国を拠点とし、諸大名に上洛の協力をもとめる書状を送ります。

信長も細川藤孝に文を送り、上洛を協力する約束をします。ここで義昭は上洛の障害とならないように織田と斎藤の停戦を引き受けます。

ところが翌年、どちらの方から破ったか定かではありませんが、停戦破棄。河野島の戦いとよばれる織田と斎藤との戦いが起こります。信長はこれに敗れます。しかし、この後、西美濃三人衆や有力国人衆を味方に引き入れ、河野島の戦いが起こった1年後の1567年に龍興を敗走させます。

 

この頃には、足利義昭は、三好衆からの侵略を恐れ、近江から越前国の朝倉義景のもとに身を寄せていました。朝倉義景の項でも記したように、本願寺などの敵対勢力を排除できないために、上洛をさせられない義景を見て、信長は行動を起こします。

村井貞勝や不破光治などを越前国に向かわせ、岐阜城の近くにある立政寺にて義昭と信長は会見します。義昭は信長と帯同することとなり、信長は、敵対していた六角家を打ち破り、また三好三人衆も撃破していきます。そうして見事上洛に成功し、義昭を15代将軍に擁立することができた信長は管領などの職位を勧められますが、桐紋と礼遇を賜るだけで、これを断りました。

 

第一次・第二次信長包囲網

尾張・美濃・京の周辺に加え、北伊勢も侵攻し勢力を拡大させていくなかで、今度は越前国を狙います。なかなか従おうとしない朝倉義景に、諸城を次々と攻め落としていきますが、突如、姻戚関係にあった浅井長政が裏切り、窮地に落とされます。しかし、殿の明智光秀・羽柴秀吉が奮戦し、辛くも逃げることができました。

 

体制を立て直し、浅井を打ち破ろうと、同盟国の徳川軍と姉川河原で戦が起こり、これを打ち破ります。この時、敵対勢力は多く、浅井朝倉連合に加え、まだ息のある三好三人衆、信長の勢いを警戒する石山本願寺の勢力が構えていました。信長が諸勢力と対峙する中で、伊勢国の門徒の一向一揆をおこし、弟の信興を自害に追い込みました。

苦境に立たされた信長は、六角義賢と和睦し、また天皇の勅命を仰ぐことで、浅井朝倉との和睦にもこぎ着け、窮地を脱することができました。

 

この安寧も束の間、わずか数カ月というところでまだ軍が衝突します。石山本願寺が各地で反信長の号令を掛けていました。

これに対し、信長は大阪から越前までの陸海路を全て封鎖しました。石山本願寺と浅井朝倉、六角家の連絡を断ち切るためです。そして、信長にとって邪魔であるのが比叡山でした。ここは、北陸路と東国路が交差する要衝であり、坊舎がたくさんあり、何万もの兵を潜ませることのできる軍事的拠点として成立する場所であったからです。これを無力化させようと侵攻を画策します。延暦寺を始め一部の寺が信長の動きを察知し、侵攻再考のための判金を信長に贈っていますが、信長はこれを断ったとされています。これについて、一説には、軍事的に邪魔だったのに加え、導き手となるはずの坊主が色欲や金におぼれ、誰よりもだらしなくなっている僧侶など、社会に必要がないと信長が感じたためとも言われています。

こうして織田軍は比叡山に対して総攻撃を始め、焼き討ちを始めます。信長が、血も涙も無いと恐れられた大事件でした。

 

石山本願寺とは和睦をしようとした信長ですが、間を取り持った足利義昭と武田信玄が入っているところまでは記録に残るも、これが成立した記録は残っていません。

それが関係しているかは分かりませんが、信長は義昭に対し、17条からなる詰問状を送り、義昭の行動を制限します。これに義昭は怒り、信長と対決姿勢が鮮明になります。

 

時が少しさかのぼった頃、甲斐国の武田軍が徳川軍を攻めていました。この時、織田軍と武田軍の中は比較的良好であり、同盟国である徳川軍への進行を通告なしに行っていました。これは、当時、騎馬隊が最強と恐れられた武田軍に、足利義昭が目を付けたことにより始まります。自身が織田の傀儡政権にならぬよう、武田氏に織田信長討伐例を出したためです。この討伐例を受けて、駿河の国に侵攻したことで、徳川軍との衝突につながっています。

噂通りの実力をもって、武田軍は次々と徳川軍を撃破していきます。信長もまずいと援軍を送りますが、そもそも諸将の敵に囲まれている状況。三千ばかりの兵しか送れず、三方ヶ原の戦いにて敗退します。

 

これに勢いづいたかと思われる足利をはじめとする反信長勢力。しかし、あと一歩のところで、肝心要の武田信玄が病没。武田軍が上洛できないことに、この包囲網が破れます。この後も義昭は信長に挙兵しますが、信長はすぐさま打ち破り、追放してしまいました。

これ以降、浅井朝倉の軍も撃破し、長島での一向一揆も制圧し、反信長勢力を次々と制圧していきます。

 

長篠の戦い

信長の戦闘において、有名な戦いが長篠の戦です。この戦いは火縄銃を効果的に使った代表戦とされています。よく話される、射手と弾を詰める人を分業させて攻撃する「三段撃ち」は創作とされていますが、連続射撃を試みたという記録は残されています。およそ3000丁の火縄銃の攻撃により、武田勝頼の軍の有力武将を次々と撃破していき、織田徳川連合軍の勝利に終わりました。

第三次信長包囲網

残された反信長の大勢力は石山本願寺です。長篠の戦いから約1年、丹波国の波多野秀治が信長と関係を結ぼうとしていた矢先、これを反故にします。そして、機に乗るように石山本願寺が挙兵します。これを打ち破らんと信長は諸将を派遣して挙兵しますが、鉄砲集団である雑賀衆が敵方につき苦戦。寺に籠城し、信長に救援要請を出します。信長自身が駆け付け、鉄砲傷を受けるも辛くも勝利します。

時同じくして、もともと信長と友好関係にあった上杉謙信が、石山本願寺と和睦したことから、敵対関係に反転。これに呼応するかのように、中国の毛利家も同調し、先の波多野家、雑賀衆と共に結託します。

 

まず雑賀衆から攻略にあたり、大軍を率いて紀州攻めを挙行。頭領,孫市を降伏させます。次に中国地方への侵攻に取り掛かります。毛利家は、石山本願寺の兵站の役割を担っていました。特に毛利水軍は、兵糧輸送の要でした。これを破ろうと、九鬼水軍が毛利水軍に挙兵し勝利。兵糧による攻め口も確保します。また、明智光秀が波多野秀治を捉え処刑、丹後、丹波も平定することに成功します。この翌年には別所長治が切腹し三木城を明け渡すことに。ここから播磨国の平定もかないます。同年に北条氏から従属の願い出があり、織田領は関東にまで拡大します。

この勢いに適わないと悟った本願寺勢が、織田家と和睦。小戦は続くも、これによって、信長を組織立って反抗する勢力は消え去りました。

 

 

本能寺の変と最期

本願寺との和睦の翌年、甲州武田家の征伐も終わり、信長は、次に四国の長宗我部家に侵攻することを決めました。この時、長宗我部家との関係はというと、かなり友好的でした。それは少し前まで、四国は阿波三好家が大勢を占めておりましたが、その後ろ盾が、足利義昭や本願寺顕如ら反信長勢であり、四国の平定を目指す長宗我部元親を信長が支援していたからです。

長宗我部元親が四国平定を順調に進めていく矢先に、信長が方針転換。讃岐国と阿波国の二国は織田領にするよう要求します。一説には、元阿波国の三好康長が敗れた際に献上した、『三日月の葉茶壷』を信長が気に入り、家臣として厚遇されるようになったため、阿波国を康長に与えようとしたからと言われています。元々、自由に平定して良いぐらいのことを言われていた約束を急に反故にされ、当然のごとく長宗我部は反発。ここで、友好関係は破綻します。

 

これを受け、役職を失う恐れのある人物がいました。明智光秀です。光秀は元々、長曾我部家との取次役を担っていました。6月2日に侵攻の計画がされていましたが、その前月、5月は徳川家康に対する接待をしておりました。元々、接待は端役であり、光秀とほぼ同格に扱われていた羽柴秀吉は備中攻めを命じられていました。光秀は自身の冷遇に焦りを覚えたことでしょう。

信長は、羽柴秀吉からの備中攻めの援軍要請を受け、光秀に向かわせます。そして信長自身も、中国遠征の準備のため、安土城から本能寺に滞在していました。この時、小姓衆のみを伴った上洛でした。

 

5月29日、備中へ向かうはずの明智軍が突如京都に進軍。本能寺に襲撃をかけます。

「敵は本能寺にあり!」

ここで、辞世の句

「是非に及ばず」

に繋がります。寡兵であった信長は勝てるはずもなく、自ら火を放ち自害したと言われています。

 

趣味・政策

趣味

茶の湯

当時の茶器は家宝になりうるほどの価値のあるものでした。信長は上洛後、熱心に茶器を収集するようになります。元々、家格が上でないため、名物を所有することで権威付けにしたり、家臣への恩賞として与えたりと、政治的利用が目立つ使い方でした。

相撲

信長の時代は西日本にのみ相撲の文化があり、信長も青年期までは相撲に触れていなかったとされています。しかし、上洛して、西国の文化に触れると相撲観戦を楽しみ、優勝者は家臣として召し上げたり茶器を贈ったりと、その熱の高さがうかがえました。

 

宗教観

無神論者とも記される一方、熱田神宮や織田剣神社などに参拝したり、金銭的な支援をしたりしていたという記述もあり、多くの戦の前で戦勝祈願を行っていたことも確認されています。比叡山焼き討ちや本願寺との対立がありましたが、特別、仏教を敵視しているわけではありません。しかし、本願寺と敵対している最中のエピソードに、不思議な力があると噂の旅僧に遭い、問答しても奇々怪々な返答ばかりされ、火あぶりにしようとすると、真っ当なことを言い出すという不誠実さに怒りを覚えた等、僧侶の個々人の行動が仏の道と相反していることから、仏教という宗教より、僧侶への嫌悪感はあったのではないかと考えられます。

また、信長の時代はキリスト教の布教が広まり始める時期でもありました。特に、冷遇も厚遇もしませんでしたが、西洋の進んだ科学技術に関心を持った記録がのこっており、進んだ医術を友のために活用したとも言われています。

 

楽市・楽座

教科書にも出てくる楽市楽座ですが、もともとは六角家が最初に行っていた政策です。商取引の特権を有していた「座」を廃止したというこの政策ですが、信長はすべての特権を廃止せず残したという記録が残されています。また関所を撤廃し、道路を整備したことにより、人馬牛の通行が容易になり城下がにぎやかになったとされています。

 

 

エピソード

泣かぬなら・・・ なのに治安回復!

「泣かぬなら 殺してしまえ ほととぎす」と揶揄される信長ですが、この句、信長の残虐的な一面が強く印象的なことから詠われています。

しかし一方、高い清廉性も有していたことも分かっています。例えば、侵攻の際、略奪をすることは当たり前でした。しかし、信長は一切これを認めず、軍を統制していました。

これの影響を大きく受けたのが京の町です。京というと雅なイメージがありますが、強盗や辻斬りなどが横行し、町での略奪も珍しいことではありませんでした。しかし、信長軍が駐留すると一変。ぴたりと悪人が身を潜めます。万が一にも捕まったら間違いなく処刑されるからです。

町人を震え上がらせた例として、織田の一兵卒がいやがる町娘の顔を無理やりのぞき込もうとしたときに、見かけた信長が一刀両断した、という話があります。身内にも容赦が無いと見せつけたその姿に、悪人も怯んでしまったのかもしれません。

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