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長宗我部元親【名言】

武将データ
なまえ ちょうそかべ もとちか 長宗我部元親

Wikipediaより

出身 土佐国
家紋 七つ片喰 七つ片喰
主家 一乗家→豊臣家
享年 61歳(1539~1599)

 

長宗我部元親の名言

一芸に熟達せよ。多芸を欲ばる者は巧みならず。

意:一つの事を極めるようにしなさい。いくつものことに手を伸ばしていては、どれも中途半端になってしまう。

 

 

長宗我部元親ってどんな戦国武将?

 

姫若子

幼少期の元親はあだ名で姫若子(ひめわこ)と呼ばれていました。姫のような可愛さ美しさ、ではなく、色白で物静かな性格だったことから、武家の嫡男にはふさわしくない者であろうと揶揄されたものでした。

 

長宗我部家は、元親の祖父:兼続の代に岡豊城を追われており、また父:国親の代で盛り返すという、目まぐるしい動乱の中でした。そんな中生まれた嫡男でしたが、決して評価の高い幼少期、青年期ではありませんでした。

 

鬼若子へ

元親の初陣は23歳でした。一般的には15歳あたりから初陣に出ることが多い当時にしては、異例の遅さです。

「長浜の戦い」と呼ばれるこの戦いで元親は50騎を率いて参戦し、70以上の首級を上げることができ、また、元親自身も2人討ち取ったとされ、前評判からは考えられない活躍を見せました。また、父の制止を振り切って支城である潮江城にも突入し、奪取に成功しました。この別人とも呼ばれる活躍をもって、「姫若子」とは誰も呼ばなくなり、「鬼若子」と呼ぶようになりました。

 

四国平定寸前で…

同じ土佐国で権威を振るっていた一乗兼定が毛利家との戦いで勢力を削られると、その隙を突くように、娘を嫁がせて内政の実権をにぎります。長宗我部家の思惑に気付いた諸将が挙兵しますが、四万十川の戦いで撃破し、土佐を統一します。

 

土佐の平定が終わった元親は、伊予国や阿波国、讃岐国にも手を伸ばしていきます。三好氏に苦戦するも、約4年かけて阿波と讃岐を制圧。残る伊予は毛利家の援軍が入ったため、侵攻が長期化することになりました。

それでも比較的、他勢力から邪魔をされずに侵攻ができたのには理由がありました。織田信長との同盟です。信長は、元親に四国には手出ししないので好きにするようにと約束されたため、後顧の憂いがほとんどない状況で進軍ができました。

 

しかし、いきなり信長が四国平定にストップをかけます。土佐と阿波の南側だけを領地とし、信長に降るよう要求します。いきなり突きつけてきた約束の反故。元親は断固拒否します。信長も勢力を伸ばし淡路島まで配下とし勢力が隣接、ついに6月2日、四国の侵攻軍の行軍が計画されました。しかし、その6月2日未明、本能寺の変が起こります。

織田軍の四国侵攻も頓挫。元親は窮地を免れることになりました。

 

しかし、元親の安堵は長く続きませんでした。信長の死後、羽柴秀吉が台頭し、信長同様に四国の制圧を狙っていたからです。危機を感じていた元親は、柴田勝家と組み賤ケ岳の戦いで挑みますが、勝家は敗れてしまいます。また、小牧長久手の戦いでも織田信雄や徳川家康と組みますが、これも敗れてしまいます。

またこの頃、苦戦していた伊予国の平定に動きが出ます。援軍の毛利軍に打ち勝つことができ、伊予守護の河野氏を降伏させることができました。いくつかの城は落とすことはできませんでしたが、これによって、元親は四国のほとんどを平定したことになりました。

 

そんな喜びも束の間。1585年、さんざん反抗してきた巨大勢力、羽柴軍が10万以上の兵を動かし、四国平定に着手します。元親は、伊予割譲で手を打とうとしますが、秀吉はこれを受け入れず戦が始まりました。あまりの大軍に長宗我部軍は為す術もなく敗れ、土佐一国のみの安堵となりました。

 

息子の死と晩年

豊臣政権下では、九州の島津征伐の命を受け、息子の信親と共に従軍します。島津軍の抵抗は協力で、戸次川の戦いで息子が討ち死にしてしまいます。愛息子の死に絶望した元親は、後に続いて自害しようとするも、家臣の諫めによりなんとか事を免れました。元親の評判は良く「義理深い。家臣の意見に傾聴する」などと言われておりましたが、信親の死をもって豹変してしまいます。

家督の相続も二男:親和、三男:親忠がいるのにも関わらず、溺愛していた四男:盛親にと、強行して決めるように。また、三男を幽閉するなど、家臣でも自分の意見に加担しないものは容赦なく粛清しました。

1599年、体調を崩し悪化。間もなく病没します。一代で勢力を拡大するもまた直ぐに萎むという戦国の栄枯を体現し、今は高知市長浜天甫三で静かに眠っています。

 

 

エピソード

敵国に侵攻するときにおこなう術として、『狩り働き』というものでありました。敵領土の稲を刈り取ったり略奪したりするもので、領民の心に大ダメージを与えるものでした。

ある戦において、元親は『刈り働き』を命じますが、半分は残すようにとも命じました。

兵はもちろん反対。これに対し、元親は
「確かに敵領ではあるが、これは農民が作ったものである。その努力を全て無くすわけいはいかない」と返します。

この噂は農民に広まり、元親は絶大な支持を得ました。

元親は、この戦に勝利するわけですが、将たるもの、ただ勝利すれば良いというわけではないということですね。

 

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