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徳川家康【名言と辞世の句】

武将データ
なまえ とくがわ いえやす 徳川家康

Wikipediaより

出身 三河国
家紋 三つ葉葵 三つ葉葵
主家 今川家→織田家→豊臣家→徳川家
享年 75歳(1543~1616)

 

徳川家康の名言

『人はただ 身の程を知れ 草の葉の 露の重きは 落つるものかな』

歌意:人は身の丈に合わぬことはしない方が良い。露も小さいと葉についていられるが、大きくなると重くなって落ちてしまう。(露=秀吉の暗喩)

 

 

徳川家康の辞世の句

うれしやと 二度(ふたたび)さめて ひとねむり 浮世の夢は 暁の空

歌意:嬉しいと思ったら夢であった。なんだと思いながらも、また頑張ろうともう一眠りをする。全くもってこの乱世での私の夢は、明けきらなくて歯がゆい、暁の空みたいである。

 

先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ

歌意:先に行くのも、後に残るのも同じことである。共にすることができないことが、本当の別れ(=死)なのだと思う。

 

 

徳川家康ってどんな戦国武将?

東照大権現、たぬき親父でおなじみの、戦国三英傑が一人、徳川家康の紹介です。

人気武将は織田信長におされっぱなしですが、

2023年1月からの大河ドラマ『どうする家康』で再び注目を集めています。

 

弱小国が故の人質生活

家康が生まれた三河国は、東に今川義元、西に織田信秀に挟まれており、いつどちらに占領されてもおかしくないような弱小国でした。(この頃の家康は松平姓であり、幼名は竹千代です)

信秀が、松平家の本城である岡崎城に侵攻の動きを見せると、当主松平広忠は、今川義元に援軍を求めます。義元は人質を要求し、竹千代を駿府城に送ることとなります。

ところがその道中で、護送役の戸田宗光が今川家を裏切って千貫文で織田家に売り飛ばします。勝った織田家は、広忠を脅しの材料に臣従を求めますが、広忠は「息子を殺すなら殺せ。一子をもって隣国の信を失うわけにはいかない」と返し、信秀を感嘆させました。

今川家と織田家が人質交換でまた今川家にいきますが、織田家で滞在した期間は2年。このときに織田信長と出会ったとされています。

そしてこの人質交換が行われたのは、父:広忠が死んだ8カ月後の事でした。当主がいない中で、家康が人質になったことで、三河は実質的な今川家の属国となりました。

 

この時、まだ家康は8歳であり、岡崎城に戻ったのは、11年後の1560年、桶狭間の戦いで今川義元が戦死した後のことでした。この期間の間に、今川義元の姪である瀬名と結婚しています。

 

 

家康三大危機:①三河一向一揆

今川家に動揺が走り、その支配から逃れた家康は、織田信長と対面し、敵意が無いことを伝えます。そして信長と同盟を結んだことで(清州同盟)、今川家と断交したことも公になりました。この証の一つとして、この頃の名前は義元の「元」の字をもらって「元康」としましたが、これを返上し「家康」と名乗るようになっています。

 

この頃に勃発したのが、三河一向一揆です。起こった所以は諸説ありますが、本證寺という寺に不審者が入ったとき、西尾城主の酒井正親が捕まえたため、守護使不入の特権侵害を起こしたことが発端とされています。

特権を守りたい三河ヶ寺(本證寺、上宮寺、勝鬘寺)や本宗寺と特権を解体し、三河を統一したい家康との間で起こった戦いになります。通常、一揆というと、当主の命によって家臣団が鎮圧にあたりますが、三河一向一揆は、家臣が門徒側として参戦している内戦の側面もありました。後の徳川十六神将である夏目吉信や蜂屋貞次らも門徒側で参戦しており、『犬のように忠実』と揶揄されるほど結びつきの強かった三河武士が反旗を翻す様を見せら付けられ、家康に宗教の恐ろしさを感じさせた一揆でした。

 

徳川三大危機:②三方ヶ原の戦い

足利義昭が信長包囲網を敷いたとき、家康にも要請が来ていましたが、これを無視することによって清州同盟を維持しました。

武田信玄の軍が西上作戦を開始すると、遠江国・三河国に侵攻してきます。この時はまだ、大軍であった武田家に対抗するだけの力はなく、信長に援軍を求めますが、信長も包囲網への対応で精一杯であり、単独で対処する公算が大きくなります。

家康は本城である浜松城に繋がる二俣城を取られることを避けるため、天竜川を渡らせまいと偵察隊を出し、自身も出陣します。しかし、武田軍の行軍スピードが家康の予想よりも早く、思わぬところで部隊が衝突。望まぬ形で開戦してしまいます。兵の差も大きかったため、すぐさま退却を始まます。この時、殿を務めた大久保忠佐と本多忠勝は坂下という不利な状況ながらも必死に堪え、なんとか家康を逃すことに成功します。

 

しかし、撤退は成功するも、武田軍はそのまま二俣城を占拠。もともと不利な状況でしたが、さらに加速させる形となってしまいます。次に本城を狙われると思った家康は守備を固めようとしますが、あろうことか武田軍は城を素通り。なめられていると激昂した家康は、籠城を説く家臣を振り払い出陣を決意。

追撃するや否や武田軍は待ってましたと言わんばかりに転進。誘い込まれた家康の軍は壊走してしまいます。命からがらに浜松城に逃げ帰り、追撃兵に追いつかれようとするところ、空城の計によってこれを免れることができました。

深謀遠慮のイメージのある家康ですが、この時はまだ血の気と共に短慮な部分が見えます。しかし、この屈辱的な敗戦を忘れず、次に生かそうと、肖像画を描かせます。世に有名な『しかみ像』です。上記の理由で書かせたことが定説でしたが、最近になってこの絵に新説が生まれ、自戒ではなく子孫への戒めを伝えるためというものや、昭和11年に尾張徳川19第当主の徳川義親氏が、同初代党首の徳川善直が父:家康の苦難を風化させないように描かせたというものもあります。

なんにせよ、後の天下人であるので、負け戦にも価値があったことは間違いありません。

 

家康三大危機③:伊賀越え

本能寺の変で信長明智光秀に討たれた1582年6月2日。家康は堺から上洛するところでした。行軍をしようとしていたその折に、訃報を聞きつけます。このとき家康が伴っていた将兵は30名ほどと言われており、身の危険が高く付きまとう状況でした。しかし、家康は信長の仇を討たんと上洛をしようとします(追腹を切ろうとした説もあり)。

 

本多忠勝らの熱い説得により本国への帰還を決意。盟友の死により、いつ敵が狙ってくるかも分からない道中、大通りは絶対に避けなければなりません。大名と言えど、やっていることは落ち武者と変わりありません。間道を通行する中で土民や地侍に殺される可能性も低くありませんでした。不幸中の幸いとして、家臣の中に伊賀出身の服部半蔵がおり、半蔵が集めた甲賀・伊賀者に助けを求めることができました。(この出会いがきっかけで、後に家康は忍者組織を組み入れることにもなります。)

なんとか無事伊勢にたどり着き、6月4日には船で三河に帰ることができました。

 

関ケ原の戦い

信長の死後、明智光秀を討たんとしますが、中国大返しを果たした羽柴秀吉に先を越され、刀の行き場を失います。

ここから秀吉の勢力が拡大していき、しばらくは秀吉の家臣となる時代を過ごします。

 

転機となったのは1598年、秀吉の病死です。この時五大老筆頭となっていた家康は、秀吉に禁じられていた合議の無い大名家同士の婚姻(伊達家や福島家)を敢行するなど、少しずつルール違反を始めます。ここから段々と違反を増やし、兵の給料を増やしたり減らしたりと、五奉行の役目であるものを大老の家康がやってしまうなど、枷が取れた家康のやりたい放題が目立っていきました。その家康を良く思わなかったのが五奉行筆頭の石田三成でした。

 

1600年には、家康が会津征伐をしようとする折に、石田三成が挙兵。秀吉の側室である淀殿から、三成に謀反の動きがあるという知らせを利用し、三成成敗の大義名分を獲得。天下分け目の戦い、関ケ原合戦の始まりです。

開戦後よりも開戦前の調略が主となった関ケ原合戦。当初は三成率いる西軍が優勢でしたが、次々と寝返ることで東軍が優勢となります。決定打となったのが、松尾山に陣を敷いていた小早川秀秋が大谷吉継の軍に突撃したことでした。結果的にほんの数刻での決着となりました。

日ノ本を二分する戦いで勝った家康は、自他ともに認める天下人でした。幕府を開くと唯一、豊臣秀頼と淀殿が抵抗しますが、大勢は決しており、1615年には大阪の陣にて決着がつきました。

 

晩年

大坂の陣から数カ月後、武家諸法度や一国一城の令を制定したことにより、日本全域の支配を達成。長きにわたる徳川政権が始まります。

1616年鷹狩への出先で病に倒れます。家康の死因で『天ぷら食中毒』がありますが、死去したのは4月17日なのに対して、天ぷらを食したとされるのは1月21日という記録があり、なかなか無理筋な説明であると言えます。

元々太っていた家康ですが、死ぬ直前はどんどん痩せていき、吐血と腹にしこりが確認されたところから胃癌などの内臓疾患であると考えられています。

 

東照大権現の神号は、秀吉の明神を嫌ったことで付いたものだと言われていあす。東照宮は日光と久能山に2つありますが、ほぼ同時期に作られています。家康の遺言によって建立されたものですが、遺骸がどちらにあるかは分かっておりません。遺言では久能山に葬るとされています。

この二つの違いとすれば、日光東照宮は幕府主体で建てられたもので、久能山東照宮は息子:秀忠が慰霊の意で込めて建てられたものになります。それゆえか、江戸時代は久能山の参拝者は制限されていました。

ただどちらも豪華絢爛な作りであるにも関わらず、1年半ほどで創っていることから金銭や人員の動員がすごかったことが伺えます。この早さと作りの荘厳さは、これからの徳川家の威光を高めるのに役立ったと言えるでしょう。

 

 

 

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