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明智光秀【辞世の句と名言】

武将データ
なまえ あけち みつひで 明智光秀

Wikipediaより

出身 美濃国
家紋 水色桔梗 水色桔梗
主家 織田家
享年 58歳(1528~1582)

明智光秀の辞世の句

【心知らぬ 人は何とも 言わば謂え 身をも惜しまじ 名をも惜しまじ】

歌意:私は信長を討った謀反人としての汚名をきせられることになるだろう。しかし、私の心は誰にもわからないのだから、何を言われても構わない。命も名誉も惜しくはない。

【従順無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元】

歌意:恭順も良く、反逆も良いという、二通りの道は存在しない。人の行うべき道理が存在することが、心の底まで深く分かった。五十五年の夢から目覚めて、黄泉に赴こうとしている。

 

 

明智光秀の名言

『時は今 雨が下しる 五月かな』

歌意:『時』=『土岐』 『雨が下しる』=『天が下知る』の掛詞。土岐氏一族の出身の明智光秀こそが天下に号令する時だと詠っている

なお、5月というのは源頼政らによる以仁王の乱が起こった月で、平氏を称していた信長を討つ意志が表れていたとされる説が有力である。ただ、信長に見られている句であることも明らかなため、真偽は定かではない。

 

 

明智光秀ってどんな戦国武将?

まず、辞世の句が2つもあるのは珍しいです。

そのため、漢詩の方は、違う人が詠ったのではないかという説もあります。

明智光秀は謎が多く、生年や誕生地がはっきりしていません。

遠謀深慮の知才

幼少は美濃の斎藤道三に仕えていたとされています。お家騒動で道三が討たれた後は、朝倉家に仕え、その後、信長の目に留まり、織田家につかえるようになったいわれています。深慮、狡猾、才知を信長から認められ、出世していき、周りからの評判も上がっていきます。ただ、その内容は、

『裏切りと密会が好き』
『偽装のプロ』
『謀略、策謀の達人』
など知略面で恐れられるような評判ばかりでした。

 

本能寺の変まで

『敵は、本能寺にあり』の言葉で知られるように、1582年に本能寺の変を起こします。ただ、この本能寺の変を起こした理由は知られていません。そのため、諸説ある中の一説を御紹介します。

野心家であることものぞかせていた光秀は、一度信長に謀反の心をもっていると見透かされていたとされています。光秀はこれに怯み、されに日に日に躍進していく信長の様を見て、謀反の心は消えていきます。しかし、戦で重用されるのは、同じ家臣である秀吉ばかりで、光秀は家康の接待(接待は位の低い人が行う)をさせられるなど、不遇な状況が続いていました。

そんな折、部下にこう囁かれます。

『いつぞやの野心はどこへ?』

この言葉に心を奪われ、本能寺の変へと繋がっていったとされています。

現代でもあまり評判の良い武将ではありませんが、部下にはとても優しかったと言われています。負傷兵に見舞いの書状を送ったり、戦死者に供養米を寄進してました。
その優しさの証拠に本能寺の変でも裏切りが0だったそうです

そんな光秀ですが、本能寺の変後、秀吉の中国大返しにあい、山崎の戦い敗戦後亡くなります。

天下人となれた日数はわずか13日でした。

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