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斎藤道三【辞世の句】

武将データ
なまえ さいとう どうさん 斎藤道三

Wikipediaより

出身 美濃国
家紋 二頭立浪 二頭立浪
主家 土岐家→斎藤家
享年 63歳(1494~1556)

 

斎藤道三の辞世の句

【捨ててだに この世のほかは
なき物を いづくかつひの すみかなりけむ】

歌意:この世のほかは捨ててしまって、残ったのはこの身この命だけだ。私の最期の地とはいったい何処になるだろうか。

 

斎藤道三ってどんな戦国武将?

不明の出自

道三の出自は不明なことが多いです。なぜならば、元々格式ある武家の出ではなく、それどころか父が浪人の身であることから、あまり記録が残されておりません。きちんと記録が残っているのは、11歳で出家しており、妙覚寺に僧侶となった時あたりからです。

 

名を変え、職を変え

定着している道三の名は、隠居後の寺に入った時の名であり、法号です。最終的には利政の名に落ち着きますが、幼名には峰丸、出家した後は法蓮房、20歳になり還俗し、油商人となった時は、『山崎屋』の屋号を称していたといいます。武家の出ならまだしも、浪人商人で名を変え続けるのは珍しいです。そして、武士になった後は西村勘九郎を名乗ります。

あまり有名ではありませんが、変更は名だけではありません。父の姓が『松波庄五郎』であったことから、道三は、姓も変えていることになります。養子に入ったわけでもない姓の変更は、道三の下剋上と深い結びつきがあります。

 

下剋上の代名詞

家格の無い者が這い上がった様、格下の者が格上を打ち崩す様を『下剋上』といいますが、道三はまさに下剋上の代名詞のような人物です。

 

武士となった道三は、美濃国の守護、土岐氏の家臣である長井長弘に仕えます。当時は応仁の乱から、内紛続きの毎日でした。武才で活躍を挙げていた道三は、土岐家当主,政房の二男、頼芸から一目を置かれていました。

誰が裏切るか分からない毎日の中で、長井長弘が土岐氏に反旗を翻しました。力のあった長弘は、実質的に政権を握るようになりなります。主君が力をもったとはいえ、守護は土岐氏にあり、長弘は出世を妨げる存在でした。

そんな折に、頼芸の兄、頼武と家督争いが勃発。道三は頼芸側に付き、見事兄の追放に成功し、より頼芸の信頼を得ることとなります。そしてその三年後、主君の長弘を不行跡(品行が良くないこと)の罪によって殺害します。そして、自信を長井新九郎規秀と名乗りました。ここで、長弘の居城であった稲葉山城の城主の座も奪取します。

さらにこの三年後、美濃国の守護代である斎藤利良が病死し、その名跡を次いで斎藤新九郎利政を名乗り、地位を上げていきました。

 

美濃国盗り

先の兄弟の土岐家の家督争いで決着がついたと思いきや、頼武の嫡男が父の仇と言わんばかりに攻勢をしかけており、また、六角家や朝倉家の助勢も加わって、美濃国は混沌としていました。

強かな道三は、ここで行動を起こします。目をかけてもらっていた、頼芸の弟である頼満を毒殺。誰の目にもわかる謀反です。その翌年には頼芸当人もまでも大桑城から追放します。あっという間に実質的な美濃国主へと昇りつめます。

しかし頼芸も黙っていません。反撃の算段を整えます。織田信長の父である信秀と朝倉孝景の後ろ盾をもって侵攻し、揖斐城から革手城を取り返します。

また、信秀は本拠である稲葉山城に侵攻しますが、堅守と名高い稲葉山城はびくともせず。逆に、帰陣の折を攻め入れられ軍が崩壊し、信秀の弟の信康が討死。大きな損害を被ります。和睦しか道がなくなった信康は、道三の娘,帰蝶と信秀の息子,信長が結婚することで決着しました。そして道三は、後ろ盾が欠けた頼芸を再び追放します。ここで完全な美濃国の乗っ取りが完成しました。戦国の下剋上です。

 

道三と信長

姻戚関係が結ばれた斎藤家と織田家。

しかし、娘を嫁がせた男は『大うつけ』のうわさで評判でした。道三は帰蝶に『うつけの評が真なれば、命を奪え』と言い聞かせ小刀を託します。それに対し、『この小刀で父上を指すことになるかもしれません』と返され、道三に負けない帰蝶の強さがにじみ出る一面もありました。

 

また、信長を呼び面会をすることになったとき、お忍びで小屋から信長の風体を観察します。湯帷子で評判通りのたわけの姿に呆れるもいなや、寺に入った信長は、屏風を引き回し、髷を結い正装に着替え始めました。家臣にも内緒にされていたこの行動に、(日頃のたわけは芝居であったのか)と思わせたと言います。道三も豹変した信長の姿に驚かされます。そして取り巻きの長槍隊に目をやると、自軍よりも長いことに気付きます(長いほど修練が必要)。

面会の後、道三は部下から「噂通りのたわけでしたな」と言われると、「無念なことだが、わしの息子らは、そのたわけの門外に馬をつなぐ(手下になる)ことになるだろう」と返し、義理息子の才覚を見抜きました。

 

その後、ワンマン経営な道三を訝しがった家臣や諸国人が、息子の義龍をたきつけて謀反を起こさせます。長良川をはさんで両陣営が対峙するとき、道三は『美濃一国譲り状』なる文をしたためました。これは、信長に美濃を譲るというものです。義龍に敗れることを覚悟しつつ、次代を担うものに領地を譲り渡そうとしたのです。信長は援軍として美濃に向かいますが間に合わず。道三の人生はここで幕を下ろします。

しかし、この九年後、信長は譲り状の約束を守るように義龍の息子、龍興を討って稲葉山城を手に入れるのです。

 

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