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辞世の句

今川義元【辞世の句】

武将データ
なまえ いまがわ よしもと

今川義元Wikipediaより

出身 駿河国
家紋 足利二両足利二両 赤鳥紋 赤鳥紋
主家 足利家
享年 41歳(1519~1560)

今川義元の辞世の句

【夏山の 茂みふきわけ もる月は 風のひまこそ 曇りなりけれ】

歌意:夏山の茂みに月の明かりが入ってくるけれど、風がやんでしまうと茂みにはばまれてみえなくなってしまうなぁ

 

 

今川義元ってどんな戦国武将?

まず、上の辞世の句は、辞世の句として詠われたものではありません。桶狭間の戦いによって討ち死にしたため、結果として辞世の句になったものです。

今川義元は、父,氏親の三男であり、また側室の子であったという説があり、継承権はほとんどなかったため、4歳で仏門に出されました。最初は駿河の善得寺におり、そこで太原雪斎と出会います。その後、建仁寺、妙心寺と場所を移し、父の命をうけて、京から駿河に戻ります。そんな折、なんと兄の二人が同日に他界。有力家臣と後継を争いつつも、太原雪斎と北条氏の支援を受けて、当主となりました。

 

義元の時代は、近隣諸国としのぎを削ることが非常に多かった時代です。どのため、他国との同盟は非常に重要な意味をもちました。最初は武田家からお嫁さん(定恵院)を迎え入れ、武田家と同盟。(しかし、この後、支援をしていた北条家から怒りを買い責められます)織田家が攻めてくると、山内上杉と同盟。またさらに後、息子の氏真に、北条氏康の娘を縁組し北条家とも同盟。武田家と北条家も縁組をもったことから、甲相駿三国同盟というものまで生まれました。

 

しかしその6年後、悲劇が訪れます。1560年に那古屋城をめざし、2万の兵で行軍を開始。桶狭間山で休憩中に織田信長の急襲を受け、愛刀義元左文字とともに首級を奪われます。およそ10分の1の兵力の軍に敗れた義元は大変な汚名をそそがれ、戦国の世に散ることになりました。

 

辞世の句が、今川家の栄光に陰りがさすことを暗示しているようにも考えられる句となっているのが、何とも皮肉な話です。

 

現代でも、義元は悪く書かれがちです。マロ眉のお歯黒でザ・公家大名のようないで立ちで小ばかにされることも少なくありません。これは後の脚色だという話もあり、仮に本当だとしても、戦の為の化粧は嗜みの一つであったといわれています。また、馬に乗らず、輿で移動していたことについて、馬にも乗れないという暗愚という話もあります。これは、今川家が『屋形号』という、足利氏の庶流の証として特別に輿の乗ることを認められているからこそ、その威光を織田家領地の人々に見せつけようとしたものであり、馬にも乗れなかったという話は偽りであるという見方が強いです。

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