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榊原康政【名言】

武将データ
なまえ さかきばら やすまさ 榊原康政

Wikipediaより

出身 三河国
家紋 榊原源氏車 榊原源氏車
主家 徳川家
享年 59歳(1548~1606)

 

榊原康政の名言

『老臣権を争うは亡国の兆し』

意味:老いた家臣が権力をもつことは、国が滅びる前兆となってしまう。

 

 

榊原康政ってどんな戦国武将?

徳川四天王・徳川十六神将・徳川三英傑に数えられる康政です。

 

陪臣からの出世

康政の一族である榊原氏は、松平氏家臣の酒井忠尚の家臣(陪臣)であるため、家柄は決して高くありませんでした。そして、二男の生まれであり、『陪臣の二男』が出世するということはまず有り得ず、よっぽどの活躍を見せなければ埋もれていくのは必然という立ち位置でした。

 

康政(幼名:於亀)は幼少期から書物を読み漁り、また字が達筆であったという記録が残っています。家康との出会いは、まだ今川家の人質だった頃、齢13歳の時に才を見出され小姓となりました。同じ徳川四天王との縁は深く、本田忠勝や井伊直政もこの頃、同じ小姓として出会っています。

19歳で元服すると、忠勝と共に旗本先手役に選ばれます。これは、徳川軍の軍制で、家康の護衛と共に、即応部隊の面も担う部隊でした。初陣は三河の一向一揆でした。無事鎮圧することができ、この戦での功績で『康』の字を家康から与えられたと言われています。

与力50騎から始まった康政ですが、この後、『姉川の戦い』『三方ヶ原の戦い』『長篠の戦い』『高天神上の戦い』等、徳川軍がかかる有名な大戦の全てに参戦。武功をしっかりと積み上げていきました。

本能寺の変で同盟国当主の信長が討ち死にすると、家康は三河へ逃げようとしますが、この伊賀越えにも付き従っており、なくてはならない存在となっています。

 

秀吉への挑発

幼少期の文の才が活きた?のが、小牧長久手の戦いです。信長の死後に頭角を現した羽柴秀吉と家康が対立しておきた戦。康政は、羽柴軍の士気を下げるために、羽柴諸将に以下の書状を送りつけます。

「秀吉は信長公の恩を忘れて息子の信雄に敵対する義なき者

この挑発的な檄文に秀吉は激怒。康政に10万石の懸賞をつけて攻め立てます。しかし、この戦で決着はつかず。康政の豪気な一面が見られた戦でした。(性格が井伊直政と似ているため、二人はとても仲が良かったとも言われています。

ちなみに秀吉が関白に就任した後、康政は秀吉から呼びつけられます。死を覚悟した康政でしたが、秀吉が懐の広いアピールとして、罪科を咎めらることなく、逆に『従五位下・式部大輔』の官位を授けられることとなりました。

 

徳川家を思えばこそ

家康最大の一戦である、関ヶ原の戦いでは、家康の息子、秀忠について参戦します。秀忠は主軍と別ルートで行軍しておりましたが、これが裏目に出て、裏切った真田軍との対戦や大雨による川の氾濫などによって遅刻。着いたときは、戦いが終わった5日後でした。

これに激怒した家康は、弁明のために遭おうとする秀忠を無視。何日も会おうとしませんでした。これをみた康政は、間を取り持つように陳謝。それでも会おうとしない家康にたいして、謝ろうとしている息子に会わないのはいかがか。と詰め寄り事なきをえることに。この時より、秀忠は康政に全幅の信頼を寄せ、『徳川家が続く限り、榊原家を滅ばせさせない』と言った記録が残っています。

 

晩年になると、これまでの勢いが嘘だったかのように、おとなしく過ごしています。関が原での戦功がないことを理由に加増を断っているからです(館林城の城主にはなっています。)

また、名言の言葉にあるように、老いたものがあれこれと口を出して権力を持とうとすると碌なことがないという持説があったため、老中という身分があるにも関わらず、静かに余生を過ごし、59歳で幕を下ろすこととなりました。

 

榊原康政の墓所

康政の墓は、群馬県館林市の善導寺にあります。

榊原康政の墓

館林に住み着いた康政は、城の拡張や城下町の整備など、町を整えるだけでなく、利根川・渡良瀬川の築堤や日光脇往還を新設するなど、土木事業をさかんに行い、
領民に慕われた領主だったということです。

善道寺には、血縁および配下4名を合わせた、5基の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が並べられ、今も多くの参拝客が訪れています。

 

 


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