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織田信孝【辞世の句】

武将データ
なまえ おだ のぶたか 織田信孝Wikipediaより
出身 尾張国
家紋 織田木瓜 織田木瓜
主家 織田家
享年 26歳(1558~1583)

織田信孝の辞世の句

【昔より 主内海の 野間なれば むくいを待てや 羽柴筑前】

歌意:『内海』=『討つ身』のかけ言葉。昔も野間には主を裏切った者がいたな。その裏切り者がどうなったかは知っているだろう。報いを待つがよい。羽柴筑前(秀吉)よ。

 

 

織田信孝ってどんな戦国武将?

織田信長の三男です。母親の出自の詳細は不明であるとされ、北伊勢の豪族であるということまでしか分かっておりません。庶出であったためか、本来は二男であったところ、同時期に生まれた側室の子である織田信雄を二男とし、信孝を三男としたという説があります。そんな出自からか、信孝は信雄を敵視していたといいます。

 

山崎の戦い

信孝にとっての人生の歯車が崩れだすのが、本能寺の変の後に起こった山崎の戦いからです。父、信長が明智光秀に殺され、羽柴秀吉が中国大返しですぐさま軍を整えます。

主君殺しの弔い合戦として、信孝が名目上の総大将となります。実際の指揮は秀吉によって執り行われることになり、誅殺に成功。朝廷からも勅使が訪れ、勝利を祝われます。

 

当主候補から落ちた清須会議

その後ほどなくして、織田家の家督を誰が継ぐのかという話になります。柴田勝家は信孝を推しますが、秀吉は嫡孫である三法師(信孝の甥にあたる)を推します。結果として、山崎の戦いで戦功をあげた秀吉の声が強く、当主は三法師に決定。信孝はこれの後見人という立ち位置になりました。

当時、三法師はわずか3歳。元父の家臣に袖にされた信孝は、当然面白く思いません。三法師は安土城に移住することになりましたが、秀吉の思い通りにさせまいと、信孝は制止し岐阜城に留め置きます。

 

父・信長の葬式

本能寺の翌月あたりから、秀吉と信孝は、京都にある大徳寺にて信長の葬式を計画していました。しかし、二人が政敵となってから話は進まず、さらに、信雄と信孝が領地である美濃の国境で争うこととなり、秀吉が一人で計画を進めることになりました。もめている二男、三男は葬儀に出席せず、喪主は四男であり、秀吉の養子でもある羽柴秀勝が喪主を行うことに。位牌は秀吉が持っていたということから、世間は次の天下人は秀吉と考え始めることに。

 

秀吉への怒り

秀吉は、これよしと言わんばかりに天下人のふるまいを始めます。信孝が三法師を移住させないのを謀反とみなし、二男信雄を後継者に擁立し挙兵。いよいよ、二男、三男の争いが激化します。

柴田勝家、滝川一益も秀吉のふるまいに我慢できず挙兵。これに呼応するように信孝も兵を上げます。しかし、賤ケ岳の戦いで、柴田勝家が敗れたことを知ると、岐阜城を開城し降伏。最後は信雄の命により切腹をさせられ、生涯を終えることとなります。

 

信孝の辞世の句には、秀吉への恨みがこれでもかと感じられます。ちなみに「野間」で起こったことというのは、内海で源義朝をだまし討ちにして、平清盛に首をもっていった、裏切りの家臣,長田忠致が後々に処刑されることを意味しています。

父、信長の敵討ちをした力強い味方が、いつの間にか、家を、天下を乗っ取る存在に。。。その怒りには同情を禁じ得ません。

 

墓所

織田信孝の墓は愛知県知多郡美浜町野間東畠にあります。織田信長の息子と言えど、権力争いに負けたからでしょうか。お世辞にも立派とはいえない小さなお墓です。裏切った秀吉でさえも、徳川家康に権力の座を乗っ取られたのをお墓から眺めて、ほくそ笑んでいるかもしれません。

織田信孝 墓

織田信孝の墓

 

 

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