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前田利家【名言】

武将データ
なまえ まえだ としいえ 前田利家

Wikipediaより

出身 尾張国
家紋 加賀梅鉢 加賀梅鉢
主家 織田家 ⇒ 豊臣家
享年 62歳(1539~1599)

 

 

前田利家の名言

『散らさじと 思ふ櫻の 花の枝 吉野の里は 風も吹かじな』

歌意:散らすまいと頑張っている桜がある。吉野の風もそれを思ってか,遠慮しているようである。

 

 

『どのような結果が出ても出陣する。そのつもりで占って欲しい』

解説:占い師に対して言った言葉。これを聞いて占い師は「出陣は今しかない」と言わざるを得なかった。

 

 

前田利家ってどんな戦国武将?

容姿に定評があった幼少期

まず容姿ですが、大変な美男子だったといわれています。女性は容姿についての記録がよく残されますが,男性はほとんどありません。
それは男性のステータスは武名であるからです。それにもかかわらず、容姿の端麗さが記録されているということは,相当な美男子だったと思われます。

 

青年期は織田信長に仕えますが、信長がやんちゃをしていたころは、利家も同様に喧嘩っ早くオラオラしていたといいます。しかも身長が182cmほどの大柄な男であったため、ヤンキーまがいな振る舞いは相当怖かったと思います。また『槍の又左』や『槍の又左衛門』という異名をもつ利家ですが、この頃から槍を振り回しており、利家がうろつくと町民は避けたとも言われています。

 

活躍から一転、追放

大きな体を生かし、戦場でも活躍します。織田信友との争いである『萱津の戦い』や織田信勝との家督争いで起こった『稲生の戦い』に参戦し、武功を挙げていきます。

『稲生の戦い』に関しては、敵弓兵の矢が顔に刺さりますが、そのまま敵陣に突っ込み、射た相手を討ち取るという勇猛ぶりを見せています。

信長も利家の活躍を称え、寵愛の対象となっていました。

 

愛妻家でも知られる利家ですが、このころ『まつ』と結婚しています利家は22歳、まつは12歳でした。NHKのドラマでも描かれたので有名かと思いますが、最終的には11人の子を成すぐらい仲睦まじかったと言われています。また、まつは秀吉の妻である『ねね』とも仲が良かったと言われています。

 

妻を迎え入れ、戦でも順調な活躍を見せ、出世街道に乗るかと思いきや、事件がおきます、『笄斬(こうがいぎ)り』と呼ばれるもので、信長お気に入りの雑用さんを切ってしまうのです。名を拾阿弥と言いますが、斬殺の理由は、笄(刀の装飾具)を盗んだ時に、信長にたしなめられるも、謝るどころか利家を侮辱するような発言をしたためとされています。

これを聞くと、利家は悪くないような気がしますが、お気に入りを殺してしまったことは事実。利家は出仕停止処分を受け、浪人同然の扱いとなってしまいました。

 

織田家に帰るために

浪人の身になり、なんとか信長の許しを得ようと考えた利家。武士が報いれるものは武功のみと考え、桶狭間の戦いに無断かつ単独で出撃します。

3つの首を挙げる活躍を見せますが、信長は許してくれません。利家はこれで諦めてなるものかと、さらなる武功を積む決意を胸にします。

信長は、斎藤道三の息子、義龍が病死したことを好機にとし、墨俣砦から『森部』という地に出陣します。これを『森部の戦い』と呼びます。利家はこの戦いにも無断、単独で参戦します。

ここでも利家は大活躍。斎藤軍の武将『足立六兵衛』という男の首をとり、信長に差し出します。「この猛将の首は城一国の価値と同等である」と評し、帰参を許されることとなりました。

この戦いから、前田利家の出世が始まります。

 

前田家当主に

前田家は、利家の長兄である利久が父の跡を継いでいました。しかし利久は病弱であり、子がいなかったことから、信長の命によって利家に家督を継がせるようにします。他の長兄に譲らなかった理由までは定かではありませんが、勘当を許してもらうためにあれだけ頑張った利家を、信の置ける駒として重用したかったのだと思います。

前田家がもつ荒子城を引き継いだことにより、一躍城主となります。また、利久が本当は家督を継がせたかった前田慶次が城を去るのもこの頃です。

 

府中三人衆

利家は、金ヶ崎の戦い、姉川の戦い一乗谷の戦い、長島一向一揆、長篠の戦いと、歴史の教科書に出てくるように有名な戦いに全て参戦し、戦功を挙げていきます。

 

1574年に柴田勝家の与力となり、越前国の一向一揆を鎮圧したことで、佐々成政、不破光治とともに、「府中三人衆」と称し、10万石を与えられます。以降は北陸地方での戦闘を繰り返し、上杉謙信とも渡り合いました。

 

人生の転換点

1582年、本能寺の変で信長が光秀に討たれると、即座に秀吉が光秀を撃破。後に行われた清須会議以降、羽柴秀吉と柴田勝家の中が険悪になっていきます。もちろん、利家は協力関係にあった柴田勝家側についており、秀吉側に和睦交渉を持ちかける使者としても働きました。

しかし、この和睦が越冬するまでの時間稼ぎと見破られ、利家らは、秀吉に調略を仕掛けられます。

この調略に即効性はなかったものの、翌年である1583年に起こった賤ヶ岳の戦いにおいて、利家は勝家の元を離れ、秀吉につく決断をしております。

勝家を裏切る形になったものの、戦そのものは秀吉陣営の勝利。加賀の二郡を得る結果となりました。

ここから、北陸地方の領を盤石なものにしていきます。1584年、能登の末森城を、かつての同志、佐々成政に包囲されたときも、寡兵で奪還に成功します。翌85年には、秀吉の命を受けて富山城を包囲し、佐々成政を降伏させます。これにより越中の地を手に入れます。また、越前を治めていた丹羽長秀が亡くなったことで、利家が引き継ぎます。加賀、越前、能登を支配することになった利家は、加賀百万石とも呼ばれる地を治めるに至りました。

 

止めきれなかった家康のブレーキ

1599年、豊臣秀吉は利家と徳川家康を伏見城に呼び寄せます。すでに重篤であった秀吉は、死後の処置について二人に頼みごとをしました。

朝鮮に出した将兵の帰国やこれを完了するまでの自分の死の秘匿。そして何より、五大老が力を合わせて秀頼を盛り立ててほしいということでした。

遺言状の末尾にも、「返す返す秀より事、たのみ申し候、五人の衆たのみ申候、いさい五人の物(者)に申わたし候、なごりおしく候、以上」

となっており、その必死さが伝わってきます。『五人の衆』こそが五大老であり、徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝を指しています。(ちなみに『五人の者』とは前田玄以・浅野長政・増田長盛・石田三成・長束正家の五奉行です)

 

しかし、秀吉の想いもむなしく、家康がどんどん好き勝手な行動をして、忠誠心など全く感じさせないような振る舞いをしていきます。これらの行為を止められる唯一のブレーキの役を成していたのが前田利家でした。家康からすると目の上のたんこぶのような存在です。

秀吉の想いを果たそうと、懸命に務める利家ですが、秀吉の後を追うかのように病気がちになります。結局、秀吉からわずか半年後に没することになり、徳川の天下の機運がまわるようになります。

たらればの多い歴史の話でありますが、利家が健康体であった場合、歴史が大きく変わっていたことは、大いに考えられることだと思います。

 

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