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三浦義意【辞世の句】

武将データ
なまえ みうら よしおき 三浦義意

Wikipediaより

出身 相模国
家紋 丸に三引き
主家 上杉家
享年 21歳(1496~1516)

 

 

三浦義意の辞世の句

【君が代は 千代に八千代も よしやただ うつつのうちの 夢のたはぶれ】

歌意:天皇の世も良いだろうが、それは現実的にはとても滑稽である。(現在の国歌である『君が代』の元となった【古今集343番】を引用し、天皇の治世に批判の意を込めて詠っている。)

 

三浦義意ってどんな戦国武将?

戦国初期にいた非常にマイナーな武将です。知っている方はなかなかの戦国マニアです!辞世の句がとても日本人になじみのあるフレーズだったので、書かせていただきました。

 

異様な大柄と怪力

1500年代初め、義意の一派である相模三浦氏は、北条氏の祖ともいえる北条早雲と対立していました。

義意は父:義同から15歳からか家督を譲られます。その時の記録として異様なのは、その身長です。

戦国時代の男の平均身長は約155cmといわれています。しかし、義意は227cmであったとされ、当時日本で一番高身長であったといっても過言ではないほどの巨体でした。現代人からみても非常に大きく、アメリカでバスケットボール選手として張り合える大きさです。味方の兵はさぞかし心強かったことと思います。

そしてその巨体から繰り出される力は凄まじく、「八十五人力」といわれていました。

戦闘スタイルは丸太を八角に削り筋金を通した、金棒での殴打。一振りすると敵が5人吹っ飛ぶという漫画のような表現が残っております。

このあたりから、脚色されているのだろうという疑念は湧いてきますが、まだまだ記録は続きます。鎧の厚さは6センチ!通常の倍以上はあろうかという厚みであり、どれだけの重さになっていたか、想像もつきません。

最終的に叩いて討ち取った将兵は500人といわれ、鬼神の如きの活躍だったということです。

 

最期

天下無双の大男にも最期はやってきます。だれにも倒せそうもありませんが、その死は戦場で起こりました。

 

義意にとっての最期の戦は北条氏からの攻撃を防ぐ籠城戦でした。3年もの間耐えましたが、劣勢は覆らずもはやこれまでというところ。

城主である父、義同は責任をとるため切腹。これを見届けた後に義意は敵中を突撃していきます。

義意は八十五人力の力を振り絞って敵を吹っ飛ばしていきます。しかし、敵は大軍。そう上手くいくはずもなく、すぐに劣勢。敵も畳み掛けようと一斉に襲いかかります。

すると義意はこう叫びました。
「俺は死なん。死んでも生きる」と。
敵兵は「意味が分からぬ、ふざけるな」などと罵ります。

義意は
「こういうことだ」
と言って勢い良く自分の首をはねました。

 

伝説の始まり

普通の武将なら、自害して終わりなのですが、義意はあまりにすごすぎて、ここから創作話として伝説が語り継がれるようになりました。以下、読み物としてお楽しみください。


自らはねた首は空へ空へと昇っていき、小田原城城下の松の木に刺さりました。
小田原の将兵は驚きましたが、生首を取りに行くのも嫌なので自然に骸とさせるのを選びました。

 

 

が、どういうわけか一年経っても二年経っても生首のままでした。肌なんかは生前そのものです。

城下の通行人には恐怖にかられ、ショック死するものまで現れました。

ちょうど3年が過ぎた頃、とうとう供養に乗り出しました。

供養を承った僧の名は忠室。義意の師のような存在でもありました。

忠室が義意の前に現れると、生首は知り合いだった和尚をみてニッと笑ったそうです。

忠室は
「あわれなことだ」
と言って経を読み始めました。そして経の終わりに一句、和歌を手向けました。

『うつつとも 夢とも知らぬ 一限り 浮き世の隙を 曙の空』

この句を呼んだ瞬間、生首はドクロと化したそうです

 

読み物 おしまい。

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