武将データ | ||
なまえ | だて まさむね |
Wikipediaより |
出身 | 出羽国 | |
家紋 | 三つ引き両紋 | |
主家 | 豊臣家→徳川家 | |
享年 | 70歳(1567~1636) |
もくじ
伊達政宗の名言
仁に過ぐれば弱くなる。義に過ぐれば固くなる。礼に過ぐれば諂となる。智に過ぐれば嘘をつく。信に過ぐれば損をする。
意:思いやりも過ぎると弱くなってしまう。信念が強すぎると柔軟性を欠いてしまう。礼儀正しすぎるとご機嫌取りになってしまう。知恵をつけすぎると嘘をつくようになってしまう。他人を信じすぎると損をしてしまう。何事もバランスが大事なのである。
伊達政宗の辞世の句
【曇りなき 心の月を 先立てて 浮世の闇を 照らしてぞゆく】
歌意:先の見えないこの世の闇を、闇夜で月の明かりをたよりにするように、私の信じる道を進んで行く。
伊達政宗ってどんな戦国武将?
独眼竜の名
『独眼竜』の異名で知られる伊達政宗。この異名は江戸時代後期から呼ばれたもので、政宗が存命の間は呼ばれておりません。
独眼竜の元祖は中国、唐の時代に『李克用』という男がおり、片目ながらも猛将の活躍を見せたことから、政宗はこの男を目標にしていたと言われています。
そもそも、右目が無い理由は天然痘という病に罹ったためで、視力を失っておりました。見目も悪く、母:義姫からも訝しがられており、コンプレックスとなっていました。そこで、側近の片倉小十郎に短刀を私、右目を抉り出したことで、眼帯をつけるようになりました。
奥州平定と母:義姫
父:輝宗から家督を継いだのは18歳のときでした。この時の東北地方はまだ諸大名が入り乱れているときであり、この翌年、畠山義継に拉致され亡くなってしまいます。
反撃にでる政宗は、畠山義継の子である義綱を攻めますが、蘆名家と共に守りを固めます。蘆名家とは元々同盟関係でしたが、その破綻は火を見るよりも明らかでした。結局堅い守りに敗れてしまいますが、翌年、再度侵攻し、畠山家を打ち破ることに成功しました。
勢力を広げたことで、対立の火種が燻り始めたのが最上家です。当主の最上義光は政宗の叔父(母の兄)であり、姻戚同盟を結んでいましたが、庄内地方の覇権をめぐり敵対関係になっていきます。
一触即発の折、政宗の家臣である鮎貝氏が寝返ることで、完全に同盟が破綻します。敵となった最上義光の動きは早く、奥羽の大名である蘆名家、大崎家と常陸の佐竹家と結託し、反政宗の包囲網を築き上げました。
四面楚歌となり窮地に陥った伊達家を救ったのは、かつて政宗を忌み嫌った義姫でした。義光との関係が良好であった義姫が調停に入ることで、最上家の不戦が決定。足並みがそろわなくなった包囲網は、その効力を失い、摺上原の戦いにおいて、蘆名氏を滅亡させることができました。
家督を継いでからたったの2年の出来事ですが、政宗は奥州平定を果たすことができました。
秀吉を唸らせる行動①
政宗が奥州平定した時には、羽柴秀吉が日本統一に王手をかけておりました。残るは東北、関東というところで、秀吉は私戦を禁じる『惣無事令』を出しており、蘆名を討った伊達家は、これを破ったことになります。
関東の北条氏も惣無事令を破って戦を行っていたため、秀吉はこれを好機と諸大名に小田原征伐に向かわせます。政宗にも書状を送りますが、父:輝宗の頃から北条家とは同盟が続いており、どちらに付くかギリギリまで迷いました。しかし、秀吉陣営の圧倒的な軍力を見て、秀吉側に付くことにします。
決断そのものが遅かったことから、小田原に到着するのも他大名より大幅に遅れました。秀吉は恭順な態度を示さない政宗に激怒。箱根に幽閉し、前田利家の詰問を受けることになります。利家に対し、政宗は「千利休の茶の指導を受けたい」と、まさかの言動。これを聞いた秀吉は驚嘆し、面会をすることにしました。
そして会ってみたらまた驚き。政宗が身に着けていたの衣服は死装束である白装束でした。処刑を覚悟して来た政宗に「もう少しおそければその首が飛んでいた」とだけ秀吉は言い放ち、処刑をせず減封のみとなりました。
秀吉を唸らせる行動②
秀吉に降ってから、文禄の役に従軍することになります。一度京に集められた伊達軍の兵は、京の町の人から大変な注目を浴びました。先頭に立つ政宗は黒羅紗を羽織り、その背中には大きな金の家紋がついており、袴にも金糸の模様が付き、兜は三日月の前立てと華美荘厳な装いでした。馬にも表や孔雀の尾をあしらった鎧を着せていたともいわれており、大変な目立ちようだったことでしょう。
そして一般兵卒までもが黒塗りに金の星の模様が入った具足を着ていたとされ、町の人からは「お洒落な軍」として歓声が上がったいいます。
おしゃれな人の事を伊達者、おしゃれ用メガネを伊達メガネと言いますが、政宗率いるお洒落軍隊が、その語源と言われています。
この珍奇とも言える格好ですが、その狙いは目立つことにありました。元々、伊達軍は前線には配備されておらず、後方補給と、活躍の難しい立ち位置でした。しかし、この目立ちすぎる格好によって、派手な衣装があっちこっち動くことで、懸命に働いている様子をアピールする狙いがあったそうです。
結果として功を奏し、小田原の遅参や一揆を先導したという疑惑を払拭することができたといいます。
関ケ原の戦いと破られた約束
秀吉の死後、徳川家康に仕えた政宗ですが、関ケ原の戦いの戦いには直接従軍しておりません。上杉征伐のために出陣しますが、家康から『百万石のお墨付き』という書状をもらし、攻め取った分だけ領地を与えるという約束をもらったのです。(百万石というのは、減封されてた伊達家が旧領回復できれば百万石に達することになるためです。)
東軍の勝利となり、最上義光と伊達政宗も無事上杉を封じ込めることができましたが、百万石のお墨付きが守られることはありませんでした。
これには諸説あり、
①関ヶ原の戦いの長期化を見込んだ政宗が、南部氏の和賀一揆を画策し、一揆発生による咎によって減封され、その分余計に伊達家に加増されると考えた。しかし、家康に見破られた。
②最上氏の支援を約束したものだったのに、勝手に参戦し戦闘を始めた。
等、明らかにはなっておりません。
よほどこの反故が悔しかったのか、政宗は書状をずっと持っており、家光の代に至ってまで、お墨付きの約束を守るよう詰め寄ります。しかし、大老の井伊直孝が「これを履行すると、諸大名も我も我もと言って争いになり、ひいては伊達家が潰えることに繋がってしまう」と言い火鉢に入れ焼いてしまいます。
もっとも、戦功としての領土拡大が見込めないことを悟った政宗は、治水に励み、日本有数の石高を誇る生産王国に育て上げております。
晩年
何かとちょっかいを出し、周りを冷や冷やさせてきた政宗。家臣には厳しかったともされていますが、政宗が死んだときは、家臣が15名、陪臣が5名後を追って殉死したということから、家臣とも結ばれていた関係であったことが伺えます。
政宗は、宮城県仙台の瑞鳳殿で静かに眠っていますが、今も仙台城跡から、仙台の民をあたたかく見守っています。