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立花道雪【名言と辞世の句】

武将データ
なまえ たちばな どうせつ 立花道雪

Wikipediaより

出身 豊後国
家紋 抱き杏葉抱き杏葉→祇園守紋祇園守紋
主家 大友家
享年 73歳(1513~1585)

 

立花道雪の名言

『岩根踏み 峰の懸路の 賢しさも 何武士の 道にかはらじ』

歌意:岩がたくさんあるような道でも、よく整った道がある。これは武士にもいえることであり、乱世を生きる武士も、道を整えて生きていくものである。

 

 

立花道雪の辞世の句

【異方(ことかた)に 心ひくなよ 豊国の 鉄(かね)の弓末(ゆずえ)に  世はなりぬとも】

歌意:決して主君(大友家)と仇なす者に心を惹かれてはならない。たとえ豊前、豊後の国が争いに場となったとしても。

 

 

立花道雪ってどんな戦国武将?

立花道雪の名が有名ですが、姓は立花山城城主の立花鑑戴の名跡を受けたものであり、道雪は法号(道に落ちた雪は、消えるまでその場所を変えることはない、の意)です。

 

立花家は、道雪が仕えていた大友宗麟に2度も謀反を起こし、家の取り潰しをうけました。立花山城主の立場を引き継いだため、立花姓を受けますが、宗麟が立花姓を名乗ることを許しませんでした。(また、道雪本人が忠誠心で、裏切り者の姓を名乗りたくないと言った説もあります。)このため、本人は死ぬまで立花の姓を名乗ったことはなく、戸次鑑連(べっきあきつら)または戸次道雪という名で通していました。

 

37戦無敗の名将

戦国時代では、本田忠勝のような猛将、勇将が目立ちますが、立花道雪もまた忠勝とはちがった意味で名将でした。

道雪が大将を務めた大戦に「負」の文字はありませんでした。しかし、特別武に秀でたわけではありません。それどころか、35歳頃に落雷に遭い、左足の機能を失う半身不随状態でした。それでも負けなかったというのは、武力ではなく『指揮力』にありました。(ちなみに落雷の際、手持ちの刀で雷を切ったという逸話から、【名刀:雷切】と言われています)

 

輿に乗って指揮を執り、連戦連勝。人々は「雷神の化身」と謳われ、その名を轟かせるようになりました。

 

最期まで忠臣

中国の勇、毛利家とも対等に渡り合っていた大友家。九州の半分を手に入れていた大友宗麟は、南部の薩摩国にいる島津家との戦いを唱えます。(この時まで、大友家と島津家は不戦による利害関係が一致し、事実上の同盟状態でした)

道雪は島津家の強さを熟知しており、開戦に反対します。しかし、宗麟は強行し、日向国での「耳川の戦い」と呼ばれる大戦が勃発。数で大友軍は勝っていたものの、島津義弘ら島津兄弟の得意の伏兵戦術に完敗。多くの将兵を失いました。

 

大友家に陰りが見え始めると、家臣が次々に離反します。しかし、道雪は宗麟の元を離れることありませんでした。自分の忠言を聞き入れられなくとも、その忠義が揺れることはありませんでした。

しかしもう高齢になっていた道雪。陣中にて病にかかりそのまま亡くなってしまいます。遺体が運ばれるときは、多くの将兵がその姿を見守っていたと言います。

 

 

エピソード

①戦国時代の武将にはあまり聞かないガーデニング好きであった。

②努力した部下を人前で称揚することを心がけていた。

③戦場にて苦境に陥った時には、自分を置いて逃げるよう言った。

 

主君への忠義だけでなく、配下の者にも気配り心配りができる優しい人であったことが伺えます。

 

墓所

道雪の墓所は福岡県糟屋郡新宮町にある梅岳寺(ばいがくじ)にあります。

立花道雪 墓

立花道雪の墓

中央は道雪の母のもので、道雪は右側になります。左側は立花家の家老である薦野増時(こもの ますとき)のものです。

 

 

 

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