武将データ | ||
なまえ | まえだ けいじ |
Wikipediaより |
出身 | 尾張国 | |
家紋 | 加賀梅鉢 | |
主家 | 織田家→豊臣家→上杉家 | |
享年 | 69歳(1543~1612) |
もくじ
前田慶次の名言
『山陰の くるる片野の 鷹人は かへさもさらに 袖の白雪』
歌意:山陰より来る鷹匠の袖は、さらにも増して白雪に振りつけられている
『ねやの戸は あとも枕も 風ふれて あられよこぎり 夜や更けぬらん』
歌意:寝床の戸は風に吹かれ、枕や背に霰が横切りながら夜が更けていく
『山柴に 岩根のつつじ かりこめて 花をきこりの 負ひ帰る道』
歌意:山にある柴の、岩の根元から刈り取ったツツジを背負っていく道であるよ
『夏の夜の 明やすき月は 明のこり 巻をままなる こまの戸のうち』
夏の夜の無造作な月の光が残っている。巻物が読んだまま置いてある、木と木の間にある戸の内である。
『吹く風に 入江の小舟 漕きえて かねの音のみ 夕波の上』
風が吹く入江には漕ぎ手が誰もいない。ただ鐘の音のみが残る夕波の上であることだよ。
前田慶次ってどんな戦国武将?
傾奇者にして風流人、前田慶次の紹介です。名言も風情のあるものが多いですね。
根付いた創作像
まず前田慶次というと、『花の慶次』を思い浮かべる人が多いのではないのでしょうか。年齢によっては、漫画やパチンコでお目見えしている人もいると思います。
その絵はとてもたくましくガタイの良い姿ですよね。しかしそのような体格であったような記述はどこにもありません。完全な創作になります。前田慶次は『天下の傾奇者』として知られており、この奇抜っぷりは主君である織田信長に影響されたといわれております。(一説に前田慶次の実父が、織田家の重臣、滝川一益の一派であるといわれていますが、定かではありません。)
前田利家を頼る
1569年、織田信長は、前田家の当主であり、慶次の養父である利久に命じて、前田利家に家督を譲らせます。利久は元々、養子の慶次に家督を譲る意向があったことが分かっていますが、なぜ信長が利家に継がせたのかは分かっておりません。一説には利家が信長の側近であったためと言われていますが、信長からすると、利家の扱いやすさを重視して決めたのかもしれません。
兎にも角にも、利家は後に加賀百万石となる土地を手に入れたことになります。慶次はというと、利家を頼って仕えることになります。石高は5000石ほど与えられました。
秀吉に付く
1582年、本能寺の変にて、信長が光秀に殺されると、羽柴秀吉につくことになります。1584年に起こった小牧・長久手の戦いでは、徳川家康と組んでいた佐々成政に襲撃された、末森城の救援に向かった記録が残されています。
また、北条攻めである小田原征伐にも利家に帯同して出陣しました。
前田家を出奔
元々慶次はその名の通り前田一族の身分の武将でした。
しかしあることをして前田家を去ります。
慶次は日頃から前田利家に生活態度について厳しく注意されていました。慶次はそんな利家が嫌いでした。
慶次は行動を起こします。利家に
「今まで勝手なことをして悪かった。お詫びと言っては何だが家に招待して料理を振る舞おう」
と手紙を出します。
利家は快諾。慶次の家へと向かいました。家に着くと慶次は
「遠いところお疲れでしょう。まずは風呂はいかがでしょうか。」と風呂を進めます。
利家は慶次の今までの粗行を振りかえると共に、心遣いに感激しました。
利家が風呂に足を入れた瞬間,激怒しました。風呂は氷水のごとく冷たい水風呂だったのです。
慶次を責め立てようとした時には,すでに慶次は前田家の元を去っていました。1590年以降に起こった出来事です。
かぶきものエピソード
『かぶき』とは、異様な風俗や行動を示すものであり、傾奇者はそのようなことをする者を指します。慶次が傾奇者として知られるようになったエピソードをいくつか紹介します。
猿真似猿舞のおふざけ
秀吉が諸大名を招いて伏見城で宴会を開いたとき、どう紛れ込んだのか、慶次も参席しました。宴もたけなわになるころ、下座から猿のお面を被った慶次が現れ、扇を使いながら面白おかしく踊ります。そしてちょこちょこ大名の膝の上にすわり、顔を伺うちょっかいを出しました。もちろん無礼なふるまいではありますが、座興(その場のおふざけ)であるので、みんなで笑い合いました。
そんなこともあり、豊臣秀吉は後々に慶次を呼び寄せて、『傾奇御免状』というものを発行し、『傾奇者として生きろ』という謎のお墨付き?をもらうことになりました。
ちなみに余談ですが、先の宴会で一人、また一人と、膝の上に乗って笑わせた慶次ですが、ただ一人だけ飛ばした人物がいます。その男は上杉景勝(上杉謙信の甥)です。あまりに威風堂々としていたその姿から、どうしても膝に乗れなかったとされています。
後に、慶次は「天下広しといえども、真に我が主と頼むは会津の景勝をおいて外にあるまい」と言っています。
関ケ原の戦いにて
関ヶ原の戦いで慶次は『大ふへんもの』という旗指を背負っていました。
それを『大武返者(武勇に長けてる者)』と解した将兵が,自分のことを大武返とはいかがなものか、と問いただしたところ慶次は
「私は『大不便者(貧乏な者)と書いたのだ。』浪人生活が長かったのでな」
と頓知を効かせて返しました。
緊張状態の戦の中で
とある戦の最中、重症を追った兵士がいました。なんとか助けようと薬を飲ませようとします。
しかし、ここは戦場,簡単に水は調達出来ません。仕方なく小便で代用しようと考えますが、戦という緊張状態。すぐに出る者はいませんでした。
ここで慶次の登場です。彼は何も動じることなく悠々と小便をし、助けることができました。
慶次は常識破りな奔放さと頭の回転の良さに加え風流の心を持つ武将であり、戦の記録よりも、小ネタのエピソードの方が多いです。『傾奇者』には、社会秩序に逆らう者,という意味もあります。この時代には珍しい利を捨てる(気にしない)という姿も、慶次が現代人に好かれる一因なのではないかと思います。