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直江兼続【名言と辞世の句】

武将データ
なまえ なおえ かねつぐ 直江兼続

Wikipediaより

出身 越後国
家紋 三盛亀甲に三つ葉
主家 (1560~1520)
1560~1520)

 

 

直江兼続の名言

国の成り立ちは、民の成り立つを以てす。

意:国が成立するには、民が暮らしていけるような土地、政治にすることである。民の生活も成り立たない国では、すぐに滅びてしまう。

 

直江兼続の辞世の句

独在他郷憶旧遊
非琴非瑟自風流
団々影落湖辺月
天上人間一様秋

意:独り他国の地に在って、昔この地で遊んだことを思い出す。琴や瑟は奏でられてはいないが、自然と風流な気分になる。段々と月は湖に影を落とし、天上界も人間界も一様に秋である。

 

 

直江兼続ってどんな戦国武将?

不安定な上杉家の下で~直江家相続~

直江兼続は上杉家に仕える家臣です。当主は謙信の養子であった上杉景勝です。

 

謙信が急死すると、もう一人の養子である上杉景虎と後継者争いがはじまります。御館の乱と呼ばれ、互いに同盟者を頼ったり金子で味方につける等、後ろ盾合戦が繰り広げられました。武田勝頼が仲介に入って収まったとおもいきや、徳川家康の駿河侵攻によって、勝頼の領地が狭まるとまた戦が始まり、支持を拡大していった景勝が勝利を治めます。

 

内紛の影響は大きく、国力は大きく下がることになりました。この機を逃さんと織田家の柴田勝家に加賀や能登を侵攻されることとなってしまいました。

御館の乱は、残党殲滅を含めると2年ほど続いており、終わったのは1580年のことです。この翌年、御館の乱の恩賞をめぐる争いが起こり、直江信綱が、毛利秀弘に殺されてしまいます。信綱に嫡男がいなかったため、お家断絶となるところでしたが、兼続が、信綱の妻であったお船の方の婿養子となり、直江姓を受け継ぐことになります。越後の与板城も受け継ぎ、ここから上杉家は、兼続と同家臣の狩野秀治と共に執権体制を敷くことになります。

この時幸運だったのは、織田軍や徳川軍にいつ本腰をいれて侵攻されてもおかしくなかったのですが、1582年に本能寺の変によって、織田信長が殺されたことです。これにより、織田家近辺の武将が身動きが取れなくなったため、上杉家に刃が向くことがありませんでした。

 

豊臣家との結束

豊臣秀吉明智光秀を下した後、秀吉から、柴田勝家討伐の協力要請が届きます。景勝はこれを受け入れ共闘。賤ケ岳の戦いにより勝家を破ったことで、上杉家と豊臣家は良好な関係を築くことができました。

長い間、足元が覚束なかった上杉家に安定感をもたらしたのです。

 

この頃に、狩野秀治が亡くなり、景勝と兼続の二人体制での政治になります。景勝にとって9歳の頃から慣れ親しんが存在であったので、主従関係こそありますが、それ以上の関係で結ばれており、この絆は二人が死によって別つまで続くこととなります。

豊臣秀吉が日本を統一するころに、兼続は豊臣の氏を授けられます。また、佐渡を平定し、後に佐渡金山の管理も任されるようになります。天下人になる前から従っていた景勝や兼続は、秀吉の信頼に値する人物として厚遇されていました。

 

1598年に上杉家は、越後から会津へ加増移封となり120万石を有する大大名になります。これは徳川家康、毛利輝元に次ぐ3番目の多さであり、信の大きさが伺えます。兼続も6万石与えられており、寄騎を合わせると30万石にもなりました。

 

しかし、この移封から間もなく秀吉が死去。豊臣政権に暗雲が立ち込めます。この時景勝は五大老の一人でしたが、同じく五大老筆頭の徳川家康がやりたい放題をするようになっていきます。景勝は石田三成と共に、反徳川の意思を膨らませていきます。

 

反徳川と直江状

徳川家と上杉家の対立が表面化したのは、家康が景勝に上洛の要求をしたことから始まります。これは、上杉家が謀反の疑いがあるとし、家康が申し開きとして上洛を求めるものでしたが、景勝はこれを拒否します。

 

家康は再度、手紙をもって上洛を求めます。そこで、兼続が拒否を伝える手紙と共に送ったのが『直江状』です。この直江状についての真贋は論が分かれており、全くの偽物という学者もいれば、一部の言葉は変えられているが、文書の存在は認めざるを得ないという学者もいます。

史料としての評価はあいまいですが、ざっくり抜き出すと以下のようになります。

景勝に謀反の意があると言っている者が怪しい。先にそちらを正すべき。でっち上げ話をした人を信じるなんて、家康様に裏表があると言っているようなものです。
景勝の上洛に遅れがあるとのことですが、国替えがあったばかりの時に上洛し、去年の9月に帰って来たばかりです。そしてまた正月に上洛するというのであれば、いつ内政を行うのでしょう。しかも雪国ですから、10月から3月までは何もできません。土地勘のあるものに聞けばすぐ分かります。
起請文を出すようにとのことですが、起請文を守らない人がいるようなので、書いてもあまり意味のないものだと思います。
前田利家様の件では、家康様の思うようにことが運んで良かったですね。さすがの御威光でございます。
ついたくさん書いてしまいましたが、思うままに書いたものです。失敬な内容がありましたらご容赦ください。

少しだけ解説。

起請文の『守らない人』というのは徳川家康のことを指しています。秀吉の死後、豊臣政権の禁止事項を破り好き勝手やった家康が、もうやらないと誓いを書かせられますが、ことごとく破ったものを皮肉ったものです。

 

前田利家の件とは、利家が病死をしたこと。家康を諫める立場となっていた利家は、家康にとっては邪魔者でした。しかも利家の跡継ぎにも謀反の疑いをかけて屈服させています。

 

この書状についての真贋は不明ですが、何かしらの出来事で家康を激怒させたことは史実とされています。

 

関ケ原の戦い

上杉軍は石田三成率いる西軍で参戦します。上杉軍の目的は、東軍を挟撃することであり、そのためには東北の最上家と伊達家に勝たなければなりません。数の上では優勢でしたが、関ケ原の主戦がわずか1日で東軍の勝利となり、敵が勢いづきます。兼続は殿軍となり必死の働きによって上杉軍本体を逃がすことができました。

挟撃どころか、何もできずに大勢が決してしまったというのが、上杉軍から見た関ヶ原合戦です。

 

戦のあと、兼続は景勝と上洛し、家康に謁見して謝罪します。結果として会津から米沢への減移封を言い渡されます。所領が4分の1に減り、家臣の整理を考えなければならないのが、減封時の痛いところでしたが、兼続はそのまま全員を連れることを決めました。

通常はあり得ないことですが、国力増強に努め、新田開発に力を入れ、30万石から、50万石まで増やすことに成功しました。また、治水対策も怠らず、それどころか鉱山開発や町の整備など、藩政の基礎を築き上げました。

 

晩年

関ケ原合戦から18年後、兼続は病に倒れます。景勝は最善の医療を施しますが、あえなく死去。兼続は養子をとっていないため、直江家はここで潰えることとなります。一説には、わざと家を潰すことによって、上杉家の財政の負担を軽くしたかったからとも言われています。

義を捨て利を取る武将が多い戦国の世の中で、利を捨て義を取った直江兼続。義将謙信にも引けを取らない清廉さは、現代人の心にも通じ、今もなお愛されています。

兼続の死後は、米沢の徳昌寺に埋葬されましたが、その廃絶したため、後に林泉寺にて合祀されています。

 

 

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