武将データ | ||
なまえ | さっさ なりまさ |
Wikipediaより |
出身 | 尾張国 | |
家紋 | 棕櫚 (または隅立て四七割り四ツ目紋) | |
主家 | 織田家→豊臣家 | |
享年 | 53歳 |
もくじ
佐々成政の名言
『何事も かはり果てたる 世の中を いかでや雪の 白く降るらむ』
歌意:世の中にある何もかもが変わるというのに、なぜ降る雪の白さは変わらないのだろうか。
佐々成政の辞世の句
【この頃の 厄妄想を 入れ置きし 鉄鉢袋 今破るなり】
歌意:近頃の積み重なる苦悩を入れていた鉄鉢袋を今破ろうと思う。(苦悩=秀吉に従わざるを得ない状況)
佐々成政ってどんな戦国武将?
辞世の句に『苦悩』という言葉が使われていますが、成政は人生の後半戦から、何もかもうまくいかなかった悲しい武将です。
三男だけど城主
成政は父、成宗の三男として生まれます。二人の兄に続くように、織田信長に馬廻として仕えました。次兄が信長の家督争いである稲生の戦いで討ち死に、また、長兄も桶狭間の戦いで討ち死にしてしまいます。そのため、成政は三男という立ち位置ながら、25歳で父から家督を継ぎ、比良城の城主となりました。
元々、馬廻は武芸に秀でたものが就くポジションですが、成政は特に秀でており、さらに選抜メンバーである『黒母衣衆』というものに選ばれていました。さらにさらに『筆頭』です。武才が輝くエリート中のエリートというのが青年期の成政でした。
本能寺の変まで
成政は鉄砲も得意とし、姉川の戦いや長篠の戦いでは、鉄砲隊として活躍し武功を挙げました。織田家の勢力がどんどん拡大していき、柴田勝家の与力という立ち位置ながらも、成政は『府中三人衆』として不破光治と前田利家らとともに越前国の府中を治めるようになりました。次に越中上杉家への侵攻を始めます。序盤は苦戦しますが、上杉謙信が死去すると、次第に形勢が自軍に傾いてきました。あと数城で上杉軍も陥落という秒読みの折、『本能寺の変』が起こります。ここまでが、成政にとって幸せな時代であり、これ以降は悲劇の連続でした。
目の上のたんこぶ:秀吉
本能寺の変の知らせが届くと、いち早く上洛を目指そうとしますが、自陣営への動揺が隠せず対上杉軍への足並みがそろいません。諸将が退陣を図ろうとするも上杉軍が息を吹き返すように攻勢。成政は守勢で耐えるのが精一杯で移動が叶いませんでした。柴田勝家も何とか京につきますが、中国大返しを果たした秀吉に、明智光秀をすでに討ち取られ、時すでに遅しという遅参でした。これを機に秀吉の発言力が増していきます。清須会議でも秀吉の意見が通り、織田家の衰退を成政は恐れました。
成政は、秀吉と対立した柴田勝家に与し、賤ヶ岳の戦いに挑みます。しかし、上杉勢を抑えるので手一杯の状況であり、600兵の援軍を出すのに留まってしまいました。そして勝家が敗走してしまい、成政は織田家の行く末がさらに心配になっていきます。
そんな折、信雄を抱き込んだ徳川家康が反秀吉を打ち出し、小牧長久手の戦いがはじまります。成政は、家康と手を組むことを決意。織田軍として戦っていた秀吉からすると、裏切りにあたります。前田利家の隊に向かって攻撃するも反攻にあい撃退されてしまいます。開戦から半年がたった頃、秀吉が信雄に和議を申し入れ、これを受諾してしまいます。大義名分を失った家康は、あえなく三河国へ帰国することに。刃の向ける先がなくなってしまった成政。しかも秀吉を裏切った立場で、いつこの首に刀を突きつけられるか分かりません。しかし逃げていてはいけないと、このままでは秀吉が織田家を飲み込んでしまうと、行動を起こします。
1584年11月下旬、自国領の富山は雪深い季節です。浜松にいる家康に対し再戦の説得のため行軍を始めます。これが有名な『さらさら越え』です。
さらさら越え
さらさら越えがなぜ有名になったかと言うと、越中から浜松城にたどり着くのには、北アルプスを越えなければならないからです。北アルプスは標高3000メートル弱の山々が連なる日本最高峰の難所だからです。成政が通った確実なルートは分かっていませんが、名前の由来になったのではないかとされる『ザラ峠』は2348メートルあり、戦国時代の装備では、素人が通れる経路ではありません。
やっとの思いでたどり着くも、家康は説得に応じず。決死の覚悟の行軍でしたが、無駄骨となってしまいました。
晩年
説得が失敗すると、ほどなくして秀吉が自国に侵攻。信雄の仲介によって降伏し、成政の織田家再興がここに潰えました。領地も没収されてしまいます。
秀吉に仕えるようになると、九州征伐に尽力。その成果を認められ、肥後一国を与えられます。秀吉から落ち着かない国のために早期の政治平定を指示されます。さっそく太閤検地に取り掛かりますが、有力国人から検地による増税を恐れられ国人一揆に遭ってしまいます。このとき病にかかっていた成政はこれを上手く対処できず、秀吉に救援要請を出します。救援軍と共に一揆を沈めますが、一揆を起こさせてしまったことを秀吉に謝罪に出向きます。しかし秀吉は会おうとせず、切腹を命じます。
主君の為にただひたすらに尽くし、その再興が叶わず。そして、我慢に我慢を重ね新主君の命に応えようと尽力するも、振るわず切腹を命じられる。
辞世の句は、この切腹の際に詠まれたと言われています。成政にとって、秀吉は厄そのものであったに違いありません。 臓物を天井に投げつけて後,絶命し、今は兵庫県の法園寺で静かに眠っています。