新着記事

名言 辞世の句

本多忠勝【名言と辞世の句】

武将データ
なまえ ほんだ ただかつ 本田忠勝

Wikipediaより

出身 三河国
家紋 本田立ち葵 本多立ち葵
主家 徳川家
享年 63歳(1548~1610)

 

本多忠勝の名言

『我なんぞ人の手を借りて武功を立てんや』

意:人の力を借りた武功が私の武功となるわけがございません。詳細は下記参照

 

 

本多忠勝の辞世の句

【死にともな ああ死にともな 死にともな 深き御恩の 君を思へば】

歌意:死にたくない。死にたくはないのだ。何にも勝るあなた(家康公)への御恩があるのだから。

 

 

本田忠勝ってどんな戦国武将?

徳川十六神将、徳川四天王、徳川三英傑が一人、本多忠勝の紹介です。ちなみに忠勝の名の由来は『ただ勝つのみ!』という意味です。シンプルながらも力強いですね。

 

名言の詳細/解説

後々、ものすごく武名を挙げる本多忠勝ですが、初陣は華々しかったたとは言えないものでした。忠勝の初陣は13歳の時。桶狭間の戦いの前哨戦となる大高城兵糧入れでした。今川義元に従軍していた松平家(徳川家)が織田軍に包囲されていた大高城に兵糧を運び込むという内容。陽動を使って見事補給に成功しますが、忠勝はこれといった活躍を見せることはできませんでした。それどころか、敵兵一人も倒すことができず、むしろ織田兵の山崎多十郎に討ち取られそうになる始末。叔父の忠真により窮地を免れましたが、辛い戦デビューとなりました。

 

上記の名言が出たのは、この2年後、15歳の時。鳥屋根城(登屋ヶ根城)攻めでのことです。未だ初首を取れない忠勝を見かねて、忠真が敵兵を弱らせて、「首を取れ」と言います。この言葉に悔しさを覚えたのか、先の言葉を言い放ち断り、奮起して自らの手で敵兵を倒し、首を挙げることに成功します。

これを見た忠真は、『主君に仕えても恥ずかしくない存在だ』と感じたといいます。

 

家康のために①三河一向一揆

家康の頁で書いてある1563年に起こった家康三大危機の一つ、三河一向一揆では、家中が割れる大騒動でした。かくいう忠勝の一門である、本多一族の大半が一揆側に付きました。これは本多家が一向宗であったからですが、忠勝は家康の味方になろうと、一向宗から浄土真宗に改宗して守りに付き、武功を挙げます。

また、この3年後に旗本先手役という家康の護衛兼前衛という役に付いたことからも、家康からの信頼が伺えます。ちなみに同じ四天王の榊原康政はこの翌年に旗本先手役になっており、忠勝と親交を深めていきます。

 

家康のために②姉川の戦い

1570年に起こった姉川の戦い。家康と織田信長が組み、浅井長政朝倉義景らの連合軍と戦った戦いです。

織田・徳川連合の方が、浅井・朝倉連合より1万弱兵が多かったとされていますが、浅井朝倉軍が奇襲(諸説あり)をかけてきたことにより劣勢に追い込まれます。

敗戦間近と思われた戦況を覆そうと、忠勝は単騎で朝倉軍に突撃します。忠勝を失ってはならないと、味方が奮起し、榊原康政が側面から襲撃にかかったことで、朝倉の陣を崩し勝利に貢献しました。また、この戦いの中で、朝倉家の家臣である真柄十郎左衛門と一騎打ちをしたという記録も残っています。(決着がつかない内に、朝倉軍が撤退しました)

 

家康のために③一言坂の戦い

1572年に徳川家と武田家が衝突した二俣城の戦いの前哨戦である一言坂の戦いでは、斥候として働きます。武田の行軍が予想よりも早く、想定外の場所で遭遇、本陣に報告するために撤退しますが、武田軍が追撃してきます。忠勝は殿として最後方に位置し、鬼神の如き奮戦を見せます。あまりの忠勝の強さに武田方の小杉左近が川柳を詠ったことが現代でも有名かと思います。

 

徳川に 過ぎたるものが 二つ有り 唐の頭に 本多平八

家康にはもったいない物が2つあるという意味で、一つは唐から手に入れた兜であり、もう一つは本多平八郎忠勝であるという、忠勝への賛辞です。その後の武田軍との撤退戦も務め上げ、家康を浜松城まで逃がすことに成功しています。

 

 

関ケ原の戦いと晩年

関ケ原の戦いの戦いでは、『軍監』という軍の最高司令官のような役に付いてきました。指揮を執る一方、やはり忠勝。前線にも出撃し首級を挙げる活躍を見せました。

無事、勝利をおさめ、上総国から伊勢国10万石に移封されます。さらに家康から旧領である上総国大多喜5万石も与えられようとしますが、辞退し、二男である忠朝に与えられました。この時点で家臣の中では石高がナンバー2になっていました。(1位は井伊直政の12⇒18万石)

 

1603年に江戸幕府が開かれてからは、徐々に体が衰え始めます。病気にかかることも増えたとされています。糖尿病を患ったことによる網膜剥離になったとされ、亡くなる数日前に彫刻刀で自身の手を切ったことに気を落とし、「もう終わりだ」などとつぶやいたといいます。そしてその後、安らかな眠りにつき、家臣2名も後を追って殉死したといいます。

 

エピソード

無傷の男

北条氏康は36戦で逃げ傷なしとされていますが、本多忠勝はその上をいき、57戦無傷といわれています。死にかけた元服時代が嘘の様であり、また晩年の彫刻刀の傷がショックだったこともよく分かります。

 

三英傑からの賞賛

小杉左近からの称える川柳がありましたが、他の諸大名からも賞賛が寄せられています。

織田信長・・・「花も実もある武将なり」(外見も中身も充実している)

豊臣秀吉・・・「天下無双の大将」

徳川家康・・・「八幡大菩薩の再来」

 

戦国三英傑に褒めちぎられる武将。只者ではありません。。。

 

名槍:蜻蛉切

日本で一番有名な槍といっても過言ではない蜻蛉切。刃の長さが1尺4寸。茎が1尺8寸であり、刀身だけで1m弱あることになります。通常の槍が5m弱であるのに対し、蜻蛉切は6mもあり、それを捌ける忠勝の屈強さと技術力の高さが伺えます。

天下三名槍に数えられており、蜻蛉切は個人に収蔵されており、静岡県三島市の佐野美術館にて展示されることがあります。

蜻蛉切

 

墓所

千葉県の大喜多城の南側に位置する、良玄寺に墓所があります。

本多忠勝の子、忠朝と共に静かに眠っています。

本多忠勝 墓

本多忠勝・忠朝の墓

↓よろしければクリックをお願いします。

-名言, 辞世の句
-

Copyright© 戦国武将〜辞世の句・名言から生き方を学ぶ〜 , 2024 All Rights Reserved.