武将データ | ||
なまえ | ひらつか ためひろ |
Wikipediaより |
出身 | 不詳 | |
家紋 | 亀甲に梅鉢 | |
主家 | 豊臣家 | |
享年 | ?(?~1600) |
もくじ
平塚為広の辞世の句
【名のために すつる命は 惜しからじ つひにとまらぬ うき世と思へば】
歌意:名誉のために死ぬのなら命は惜しくない。どうせいつまでもこの世に生きているのではないのだから。
平塚為広ってどんな戦国武将?
まず、辞世の句ですが、『名のために~』ではなく『君がため』と記されてる場合もあります。『君がため』の場合は、大谷吉継を指していると考えられます。どちらが本当かはわかりませんが、どっちにしてもカッコいい句だと思います。
転々とする主君
定かではありませんが、元々は明智光秀に仕えていたと言われている平塚為広。そのため、本能寺の変にて、織田信長を襲撃した一員であったとされています。
後に羽柴秀吉の中国の大返しに遭うと、今度は秀吉に仕えることになります。しかし、何か原因か分かりませんが、秀吉の怒りを買うことがあり、下野します。浪人として播磨国の佐用城城主である福原助就の討伐に参戦。羽柴陣営に戻るための武功を求め、黒田官兵衛に陣借りをし、見事に助就くを討ち取ることに成功します。(陣借りとは完全自費による参戦の事であり、戦力の押し売りのようなものです。)
これを機に、秀吉の馬廻(黄母衣衆)として再度使えるようになり、小田原征伐等で武功を積み上げていきます。当人の評判として、怪力の持ち主であり、薙刀の名手であったと言われています。この後、朝鮮出兵にも参戦し、8000石の褒章を与えられています。
秀吉の死後は豊臣秀頼に仕えことになり、割と落ち着かない感じで主君が代わっている印象です。
大谷吉継と関ヶ原の戦いまで
平塚為広は大谷吉継と盟友であったとされています。一説には、朝鮮出兵の時の那古屋城で駐留していたときに懇意になったとあります。
前田利家の死後、徳川家康の勝手な行動が目に余るようになりますが、止められるものもおらず、多くの者が豊臣政権の後は徳川政権かと思っていました。しかし、それをどうしても阻止したかったのが、幼少から秀吉に仕えていた石田三成です。
家康は着々と大名を抑え込み、上杉家の征伐に向かおうとしていました。大谷吉継にもその協力要請があり、向かう道中、為広がいた垂井城に立ち寄りました。そこで、三成の使者が表れ、佐和山城に出向くことになります。
聞かされたのは、打倒家康の計画。石田三成と大谷吉継もまた親友でありました。しかし、親友だからこそ吉継は首を縦に振りませんでした。算用が得意な吉継から見て、人望の無い三成がいくら挙兵要請をしても、勝つ算段が見込めなかったからです。為広もこれに同意見でした。
いくら親友の頼みとはいえ、命を落とすようなことに賛成できない。しかしそれでも、三成の意志が揺れることはありませんでした。その思いに心を動かされ、負けると分かっていても友のために、共に同じ道を歩むことを決めました。
小早川秀秋裏切りの予見
関ケ原の戦いで、小早川秀秋が裏切ったことで東軍が大きく優勢になったことは有名な話です。
為広と吉継は、秀秋が裏切る可能性が濃厚であると予想しており、事前に行動を起こしていました。為広が探りを入れ、裏切る気配があるならばその場で誅殺もやむなしとしましたが、相手に察知され断念します。
しかし、裏切りの疑義は晴れません。為広と吉継は前線にいながらも、小早川秀秋が裏切っても対応できる場所に布陣。布陣図により、多少配置が異なりますが、互いが互いを守れるような配置ともなっていることは間違いありません。
結果として秀秋の裏切りまでは、想定内であり良かったのですが、なだれ込むように追従して裏切る将兵が止まらず、敗戦は濃厚、為広は吉継を守るように後退します。しかし、追撃を止められず、山内一豊の家臣である樫井氏に討たれたといわれています。
為広の辞世の句は、この関ヶ原の戦いで生まれたものであり、先に述べた通り、吉継に送ったものです。どのように戦時中に伝わったか分かりませんが、吉継の辞世の句も、為広の句の返歌として部下に書を持たせ為広に返しています。この書が届いたかどうかは分かりませんが、為広の奮戦は凄まじかったという記録が残されており、この身が尽きようとも友を守ろうとする姿は、今もなお語り継がれる逸話となっています。
-
大谷吉継【辞世の句】
武将データ なまえ おおたに よしつぐ Wikipediaより 出身 近江国 家紋 対い蝶紋 主家 織田家→豊臣家 享年 36~42歳?(1559/1565?~1600) 大谷吉継の辞 ...
続きを見る
関ケ原の隣である、岐阜県垂井町にて墓碑が建てられ、今は静かに眠っています。