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別所長治【辞世の句】

武将データ
なまえ べっしょ ながはる 別所長治

Wikipediaより

出身 播磨国
家紋 右三つ巴 右三つ巴
主家 織田家→毛利家
享年 (1588~1580)

 

別所長治の辞世の句

【今はただ 恨みもあらず 諸人の  いのちに代はる 我が身と思えば】

歌意:今はもはや恨みなどはない。私の命が多くの命の代わりになると思えば。

 

 

別所長治ってどんな戦国武将?

織田家からの離反

別所家は播磨国にある三木城の城主でした。1570年に父:安治が病没すると、12歳という若さで家督を継ぐことになります。元々別所家は、早くから織田信長に臣従を決めており、長治の名も信長の『長』をとったものと言われています(幼名は小三郎だった)。

 

1577年、信長は着々と勢力を拡大していき、中国侵攻を見越した播磨平定を目指します。羽柴秀吉にその役を任命し、毛利家の支城を落としていきます。この時長治は秀吉に従軍していたのですが、1578年の2月に反旗を翻します。この離反の理由は諸説あり、同じ播磨国の波多野秀治が離反したことや、秀吉が攻城後に女子ども諸共皆殺しにしたことによる義憤である等、定かではありません。こうして、別所家は、毛利家に付くこととなります。

 

秀吉の干殺し

長治は三木城での籠城戦を決め、守備を固めます。元々三木城は、山や川に囲まれた地形に作られているため、守備力の高い城です。秀吉も通常の手で攻めたのでは埒が明かないことは理解しているため、周りの城を落としつつ、包囲を固めていきます。

序盤は毛利家からの兵糧の支援があり、万全の籠城体制下と思われました。しかし、秀吉が包囲を厳重化し、兵站線を次々と断っていきます。周りの支城も全て落とされているため、本格的な兵糧責めが始まります。長治も長期的な籠城はもたないと悟り、打って出ますが敗れてしまいます。やむを得ず籠城を続けますが、兵糧は日に日に減っていくばかり。切りつめて日々を過ごしますが、やがて底を尽き、終盤には犬猫を殺して肉としたり、松の皮を剥いで幹を舐めたりしたといわれています。

 

籠城を始めて実に2年。1580年1月、この凄惨な状況に、長治は降伏を決意。こうして、秀吉による『三木の干殺し』とよばれる籠城戦に終止符が打たれます。

 

 

主君の命で民を救う

秀吉から出された降伏条件は城主一族の切腹でした。これを受け入れれば城兵の助命を約束するとしました。長治はこれを快く承諾。秀吉から贈られた最期の食事をもって宴を催した後、一族と共に自害します。

この城主の鑑のような長治の姿に秀吉は感銘を受け、租税が免除されるなどの厚遇を受けることとなりました。

 

長治の辞世の句は、最後まで共に戦ってくれた城兵,民のことを思いやったものであり、その姿勢は今もなお語り継がれております。毎年こどもの日の5月5日に『別所公春祭り』が開かれ、メイン行事の歌碑祭りでは、別所一族をしのんだ詠歌を一般募集しており、優秀作が朗読されるそうです。

また、長治夫妻の首塚となっている三木市の雲龍寺では、城兵が飢えに苦しむ中、藁をも食したという故事から、長治の命日である1月17日に、藁に見立てたうどんを食べる「うどん会」というものが執り行われています。

 

 

 

 

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