武将データ | ||
なまえ | ねね こうだいいん |
Wikipediaより |
出身 | 尾張国 | |
家紋 | なし | |
主家 | 浅野家→豊臣家 | |
享年 | ?(?~1624) |
もくじ
寧々の名言
『たちばなを 庭のまがきに 眺むれば 雲居の花を 恋しくぞ思う』
歌意:後陽成天皇が秀吉の聚楽第(じゅらくてい:城郭兼邸宅)に行幸された事を、懐かしく思って詠んだもの。(雲井=天皇の居所)
寧々・高台院ってどんな戦国武将?
戦国武将ではありませんが、後の天下人、豊臣秀吉の正室となる人物です。
珍しかった恋愛結婚
ねねは朝日殿と杉原定利の間に生まれた子です。朝日殿は、ねねを妹のややと共に、浅野家当主である浅野長勝のもとに養女として出しました(下図参照)。
浅野家は立派な武家であるので、当時仲睦まじけれども、身分の低かった農民の木下藤吉郎(後の秀吉)との結婚を認めませんでした。元々ねねは、前田利家に嫁ぐ予定であったとされています。入婿よろしく長屋に入り浸っていた秀吉と結婚することになったため、朝日殿はずっとその婚姻を認めず、天下人となっても、その姿勢が崩れることはありませんでした。
武家と農民という格差婚は、家格が上である武家の方が嫌がります。よほど金を積んだり、大恩があるならいざ知らず、当時は珍しいことでした。また、武家はお家繁栄のための政略結婚が常であったため、恋愛結婚という点でも、異色のカップルといえます。
世継ぎ問題
夫婦仲は良かったとされますが、二人の間に子宝を授かることはありませんでした。代わりに、加藤清正や福島正則といった親族の子どもや、黒田長政(黒田官兵衛の子)のような人質をねねは大事に育てるようになります。
ねねの人柄として、誰にでも分け隔てなく接し、どの子も実の母のように慕われてたと言います。また、家臣と笑い話をするなど、決して身分や権力に驕らされず、一人の人間として親しまれていたという記録が残っています。
側室多すぎ問題とねねの怒り
ねねとの間に子どもが生まれなかったからか、秀吉が女たらしだからか分かりませんが、秀吉は次々に側室を迎えるようにもなりました。記録にのこっているだけで16人。非公式にはもっといるとされています。
いくら何でもと思うねね。堪り兼ねたねねは、織田信長に愚痴の手紙を送ります。すると、信長からこんな返事が返っていきます。
『いつだか久しぶりに会いましたが、いっそう美しくなられた。秀吉もあなたに対して不満をいっているようだが言語道断。あのハゲネズミがあなたほど美しい女性を他に得られるはずがないのだから、あなたもその妻として堂々と御振る舞いなさい。そしてこの書状を秀吉にも見せてやりなさい』
意外と女性にやさしい信長。
また、ねねは浮気対策?の一環として、秀吉に念書も書かせています。
『もし寧々に口答えしようものなら、1日1晩縛りつけられても文句言いません』
いつの世も女性は強し。。。だれが天下人か分かったものではありません。
晩年
秀吉が死ぬと、遺言の通りに、徳川秀忠の娘である千姫を豊臣秀頼に嫁がせます。この婚礼を見届けた後に、ねねは仏門に入ります。秀吉の菩提寺として『高台寺』を建立します。この建立資金の一部は徳川家康からもらっており、ねねは徳川家と良好な関係であったことが伺えます。秀吉が亡くなった後は、高台寺に毎日通ったとされています。
しかし、大阪の陣にて、淀殿と秀頼が家康と対立。ねねは事を荒立てまいと大阪城に説得に行こうとします。ところが、家康がどのように影響するか未知数と考え、監視体制をとり、移動を制限されてしまいます。
何も動くことができないまま、豊臣家が潰えるのを見守るだけでした。大阪の陣から9年後、自らが建てた高台寺にて静かに眠ることとなりました。
ちなみに秀吉のお墓は豊国神社ですが、高台寺のお霊屋というところで秀吉とねねを祀っており、厨子内にねねと秀吉を象る木造が安置してあります。戦国の動乱から遠ざかり、今も仲睦まじく暮らしていることと思います。