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茶々(淀殿)【名言】

武将データ
なまえ ちゃちゃ(よどどの) 茶々 淀殿

Wikipediaより

出身 近江国
家紋 なし
主家 豊臣家
享年 48歳(1567~1615)

 

茶々の名言

『花もまた 君の為にと 先出でて 世に並びなき 春にあふらし』

歌意:花(=秀頼)もあなた(秀吉)の為に出たのでしょうか。他とは比べ物にならないくらい春に合う(世に適う)ことでしょう。(秀頼の行く末を案じたものとされます)

 

茶々(淀殿)ってどんな戦国武将?

戦国武将ではありません。浅井長政の頁でも紹介しましたが、母を織田信長の妹:お市にもつ、浅井三姉妹の一人であり、本名は浅井茶々といいます。

 

近親者が次々と討たれる

浅井長政お市の間で、小谷城にですくすくと育ちますが、平穏の時は長くはありませんでした。父:長政と叔父:信長が対立することになり、信長から攻撃を受けることに。小谷城が落城すると母:市と姉妹は救出されますが、父と兄は信長の命によって処刑されてしまいます。

まだ齢、4,5歳にして、戦国の世の非情さを目の当たりにします。そんな非情に映ったかも分からない叔父:信長でさえも、この7年後の1573年、本能寺の変で亡くなります。

また同年の清須会議にて、母:お市柴田勝家と再婚しますが、この翌年に羽柴秀吉と勝家が対立したことにより賤ケ岳の戦いが勃発。秀吉に敗れたことにより両親を失います。

戦国時代において、親族を失うことは珍しいことではありませんでしたが、茶々の周りにおいては、ビッグネームの近親者が次々と討たれているところが、波乱万丈さを際立たせています。

当主の死と共に、2度の落城を16歳までに経験したというのも大変珍しいと思います。

 

親の仇の側室へ

茶々は何の因果か、二十歳ごろに親の仇である秀吉と結婚します。この結婚の理由については諸説あり、明らかな理由は分かっていません。ある一説では、秀吉が恋心を寄せていた市の面影を一番残していたのが茶々だったから。またある一説では、大柄な茶々を秀吉が好んだからともいわれています。

茶々からしたら憎き相手かもしれませんが、天下が見えている秀吉に逆らえるはずもなく、側室の一人となりました。この時秀吉は約50歳であり、年の差婚でした。

 

秀頼の誕生と上がる地位

秀吉は多くの側室を迎えていましたが、子宝に恵まれないことが豊臣家唯一の弱点でした。しかし、茶々は結婚から一年で子を身ごもり出産します。名を捨(棄)といい、秀吉は大変喜びました。茶々は秀吉から山城淀城を贈られ、この頃より『淀の方』と呼ばれるようになりました。

しかし、喜びも束の間。3歳で捨は亡くなってしまいます。ちなみに名の捨というのは、『”捨”てを拾うとは良く育つ』という謂れから、長寿の願いを込められた名づけであり、秀吉は大変悲しみました。しかし、この死からまた一年後の1593年に第2子も懐妊、無事出産します。名を『拾』といい、これも前述の願いと同様に名づけられました。

6年後に秀吉が死没すると、捨(のちの豊臣秀頼)の後見人となり、政治に介入するようになります。

 

関ケ原の戦い

秀吉の死後、石田三成徳川家康が対立し始めます。石田三成は、戦いの大義名分として、秀頼のお墨付きの書状を発給してほしいと言いますが、淀殿はこれを認めませんでした。家康側に付いたわけでもありませんが、三成の挙兵を謀反ととらえ、家康と毛利輝元に鎮圧を依頼しており、これを家康が『秀頼様の御為』という大義名分を持たせる形になりました。

とはいえ、直接的な力添えをしていないことから、戦が始まり、どちらが勝ったとしても、秀頼の地位に影響が無いように図っているところから政治的な手腕の高さを覗かせています。

 

関ケ原の戦いでは東軍の勝利となり、この戦いの後、家康は、淀殿と秀頼が西軍に加担していないと信じていると伝え、淀殿は家康に感謝したと言います。その感謝の意として饗応した時、家康の盃を秀頼に与えるように求め、家康に秀頼の父親代わりとして保護してほしいという願いを公にしました。

 

大坂の陣

そんな願いはどこへやら、家康は豊臣家の勢力を削ごうと、関ケ原の戦いでの恩賞として、豊臣家の直轄地を削減して分け与えました。

しかし淀殿は、いずれ家康が権力と共に領地も豊臣に返還するものと信じており、そうすれば、さらなる権力が集中するものと考えていました。このとき222万石が65万石までに減らされており、有力が大名が去ったことで、助言、進言する者がおらず、淀殿がワンマン運営で舵を切っていたことが裏目に出てしまいました。

 

そんな淀殿の期待は見事に裏切られ、家康は1603年に征夷大将軍に就任し、江戸に幕府を開きます。そしてこの2年後には息子の秀忠に2代目を譲ったため、勝頼に権力を与えるつもりがないことが、はっきりと伝わります。それどころか、家康は秀頼に臣従を求め、淀殿を人質として江戸に住むように要求します。自分の方が上と思っている淀殿は、主従がひっくり返った要求に激昂。対立姿勢が露わになります。

 

反家康を募りたい淀殿でしたが、天下の大勢はすでに決したものだと多くの者が見ており、豊臣恩顧の大名ですら集まることはなく、金銭を用いた浪人を集めての戦いでした。真田幸村などの活躍はありましたが、あえなく大阪城は落城。

淀殿にとって、三度目の落城。籾蔵の中で勝頼と共に自害したと言われていますが、その遺体は見つかっておらず、逃亡したのではないかという説もあります。

 

お墓

その身は確認できずとも、大阪市の太融寺にてお墓が建てられています。墓の傍にある石碑に使った石材は大阪城のものであり、向かいに建てられた石碑の石材は、生まれ育った小谷城のものだということです。落城こそしましたが、縁のある物に囲まれて、茶々の魂は安らかに眠っていることでしょう。

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