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細川忠興【辞世の句】

武将データ
なまえ ほそかわ ただおき 細川忠興

Wikipediaより

出身 丹後国
家紋 九曜紋九曜紋
主家 足利家→織田家
享年 83歳(1563~1646)

 

細川忠興の辞世の句

皆共が忠義 戦場が恋しきぞ いづれも稀な者どもぞ

歌意:平和な世の中になり、みなが忠義を見せた戦場を恋しく思う。何者にしても、命を張るその姿は、尊い者ばかりであった。

 

 

細川忠興ってどんな戦国武将?

 

細川家は足利家の支流となります。

そのため、家紋も足利家から拝領された引両紋や桐紋が用いられています。

九曜紋となったのは、忠興の代からで、これは細川忠興が、足利家から織田家についた時より用いられています。

 

ちなみに織田家につくことになったのは、後の義父となる明智光秀からの紹介です。

 

滅多にない信長からの感謝状

忠興の初陣は15歳の時に起こった『雑賀の戦い』になります。

相手が鉄砲の傭兵集団であるため、竹を束にして作った『竹束』を弾除けに使い、討伐戦で武功を挙げました。

 

大功を挙げたのは、その7年後となる1577年。

織田家に仕えていた松永久秀が突如離反したことによる討伐戦です。

松永家が治めていた片岡城に、我先にと勇猛に攻め入ります。

 

額に傷を受けるも、見事に勝利に貢献します。

光秀からも「忠興の勇敢さを見習うように」と皆の前で褒められ、

後日、信長から『感状』を受け取ります。

これは、主君から与えられる賞状のようなもので、信長が与えたとされる感状はほとんど見つかっておらず、

どれほど忠興に期待をよせていたかが伺えます。

 

愛と狂気の始まりの結婚

大功を挙げた翌年である1578年に、

明智光秀の三女、玉子(後の細川ガラシャ)と結婚します。

ガラシャは絶世の美貌をもち、忠興はベタ惚れでした。

 

その偏愛ぶりを示す逸話として、

庭師がガラシャと世間話をしただけで、切り捨て、

ガラシャの料理に髪の毛が入っていただけで、打ち首にしたと言われています。

 

 

年月を経て、二男三女の子を設け、仲睦まじい夫婦でありましたが、

あることを契機に、忠興の愛が歪んでいきます。

それは義父の光秀が起こした大事件、『本能寺の変』です。

 

光秀の親戚となるだけあって、細川家は光秀方に付くよう要請されていました。

しかしこれを再三にわたって断ります。

 

本能寺の変こそ成功するものの、秀吉の大返しによって光秀が敗れると、

参戦していない細川家にも疑義の目が向けられます。

忠興の父、藤孝は即座に喪を示すための剃髪をし、隠居を表明。

また、忠興に家督を譲り、息子夫婦にも反抗の意思がないことを示すために、ガラシャを幽閉します。

この見事な対応によって、細川家は疑義から逃れられることになりました。

 

偏る愛、冷める愛

義父が謀反を起こした場合、その娘である妻と離婚するのは普通のことでした。

しかし忠興は離婚を微塵も考えていませんでした。

それほどにガラシャを愛していたためです。

 

一方ガラシャは本能寺の変より、身寄りの無い孤独な時間が始まります。

二年間の幽閉中を経た後、秀吉の計らいにより戻ることを許されます。

しかし、逆臣の娘というレッテルを取り去ることができず、忠興の元に戻るとも軟禁状態が続きました。

 

息苦しくも寂しい心のすき間に、キリスト教の教えが身に染みていきます。

しかし、キリスト教は禁教扱い。

忠興にも打ち明けられない、秘密の信仰でした。

しかし、キリスト教にのめり込むガラシャはついには洗礼も受けるように。

もう隠しきれないとしたガラシャが忠興に打ち明けますが、

忠興はこれに激昂。

ガラシャを止めなかった乳母の鼻と両耳を削ぎ落すという暴挙に出ます。

 

愛するガラシャが変な道に逸れないようにと必死に説く忠興。

なぜ自分の信仰を理解してくれないのかと、愛が冷めるガラシャ。

 

ここから両人の溝はどんどん深まっていきます。

 

愛が冷めていくガラシャをよそに、忠興は気をひこうと必死になります。

時に、「たくさんの側室を取る」と言って嫉妬させようとしますが、

ガラシャには何の効果もありませんでした。

 

それどころかガラシャは離婚を決意します。

しかし、キリストの神父に打ち明けますが、キリスト教では離婚は禁忌。

逆に夫婦仲を深めるように説かれてしまいます。

 

 

溝はあれど誓いを守る妻

そうして時は過ぎ、1600年。

一向に夫婦仲は良くなりませんでしたが、天下分け目の戦いが近づいていました。

 

豊臣時代に、忠興は石田三成に謀反の疑いを掛けられたことがあり、

三成とは仲が悪い状況でした。

そんな折に、関ケ原合戦の前に、徳川家康から、自軍に付けば10万石の加増を約束され、これを快諾。

忠興は東軍につくことになりました。

 

忠興は此度の戦が長期戦となることを予想。

長らく家を空けることに心配となった忠興は、

家臣たちに過酷な命令を申し付けます。

 

「も敵が攻めてきたら、妻を殺した上で全員切腹せよ」

 

苛烈な言い付けではありますが、ここにも忠興の愛が隠されてるように思います。

それは、妻に自害を申し付けない点です。

キリスト教が自害を禁じていることを知っての配慮なのだと思われます。

 

 

万が一の言い付けではありましたが、この嫌な予感は的中してしまいます。

 

三成が、忠興が東軍に付くのを聞き入れ、

ガラシャを人質にすれば、西軍に付くだろうと考えたのです。

 

そうして細川家の屋敷を兵で囲むと、大阪城に来るようガラシャに命じます。

しかし、ガラシャは頑として聞き入れませんでした。

ガラシャは侍女を集め、

「夫の言い付け通り、自分だけ死にたいと思う」と言い、

屋敷に居る者を外へ逃しました。

 

キリスト教の教えに背かぬように、家老の小笠原秀清に槍で介錯をさせます。

また、秀清も爆薬を屋敷に仕掛け共に自害。ガラシャの亡骸が敵に渡るのを防ぐという考えもありました。

 

忠興への愛は冷めていたのにも関わらず、

最期の命は守ったガラシャ。

二人の間には、愛ではない他のものでも結ばれていたのかもしれません。

 

 

この凶報を知った忠興は憤慨。

怒りのままに身を任せ、関ケ原合戦では石田三成本隊と戦い、100を超える首級を挙げたとされています。

この戦功を受けて、家康からは豊前国の約40万石に加増。

当時12万石からの大幅の加増であり、大大名の仲間入りとなりました。

 

 

諸所の手続きが終わるころ、忠興は妻を弔います。

かつて反対していたキリスト教でしたが、

妻の想いを汲んで教会葬を決意。

細川家の屋敷から骨を拾ってくれた神父、オルガンティノに教会葬を依頼。

宗派どころか教義も違えど、忠興はこれに参列し、

亡き妻の悲しみの想いを胸に、深く深く悼みました。

 

 

細川忠興の墓所

ガラシャの遺骨は、大阪市の東淀川区の崇禅寺に埋葬されておりますが、

墓は数か所に点在しております。

 

その一つが京都市北区の高桐院です。

ここは細川家の代々の墓所でもあり、細川家3代~12代までが祀られています。

 

ここに忠興とガラシャの墓があります。

細川忠興の墓

 

墓のこぼれ話

忠興の墓にある灯篭ですが、

裏面を見ると、がっつり割れているのが分かります。

忠興の墓

欠けている灯篭

実はわざと割ったものです。

これを行ったなのは千利休

忠興の茶の師です。

 

忠興は乱暴者のイメージですが、

茶の道には通じており、利休の高弟である、「利休七哲」に数えられています。

もっというと、忠興の号を関している『三斎流』という茶道の開祖となっております。

 

利休は生前、忠興に灯篭が欲しいと言われていました。

その灯篭が、後の墓にある春日灯篭です。

この灯篭、当時の天下人であった秀吉にもほしいと迫られていました。

しかし、大事な弟子が欲しいと言っていたので、

わざと灯篭を割って、「不出来なものだから」といって、

秀吉の頼みを断り、忠興に譲ったとされています。

 

利休と忠興の絆は深く、

利休が秀吉から切腹を申し付けられたときも、忠興は駆け付けています。

天下人の怒りを買うような行為にも関わらず、さっと馳せ参ずる忠興。

そこには、ガラシャへの想いと同じように、

自分の大切な人のことならば、

何を失っても行動するという熱い理念が、

忠興にはあったのかもしれません。

 

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