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武田信玄【辞世の句と名言】

武将データ
なまえ たけだ しんげん 武田信玄

Wikipediaより

出身 甲斐国
家紋 武田菱 武田菱
主家 武田家
享年 51歳(1521~1573)

 

武田信玄の名言

『人は城 人は石垣 人は掘り 情けは味方 仇は敵なり』

歌意:戦の勝敗は城でもなければ石垣でもない、人の力なのだ。
また情理を尽くすことで人を惹き付けるし、逆に相手を恨めば互いに反発し、害意を抱いてしまう。

 

『為せば成る 為さねば成らぬ 成る業を 成らぬと捨つる 人のはかなさ 』

歌意:強い意志を持って取り組めば必ず実現できる。一方、取り組まなければ何事も実現できない。努力すればできることであっても、最初から無理だと諦めてしまうところに、人の弱さがあるのだ。

 

 

武田信玄の辞世の句

【大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず自ら風流】

歌意:この世は世相に任せて生きていくものだから、飾ったりせず、素のままで生きるのが良い。

 

 

武田信玄ってどんな戦国武将?

『風林火山』でおなじみの武田信玄です。ちなみに風林火山は信玄発祥の言葉ではなく、孫子という人物のものです。

 

神童、そしてクーデター

軍事の手腕が光ることで有名な信玄ですが、幼少期は詩歌が好きな文学少年として知られていました。

そして幼き頃から、非凡な才を周囲から認められていました。有名なエピソードが『貝殻数え』です。遊びの一つに『貝合わせ』というものがあり、今川義元に嫁いだ姉から、貝合わせ用にと大量の貝殻が送られてきます。

信玄は、これを従者と畳にきれいに並べ始めます。そして拡げ終わると、家臣を集めこう言います。

「この貝殻はいくつあると思うか。」

家臣は口々に「1万」「2万」と答えます。それを聞いた信玄がこう言います。

「皆見当違いである。答えは3700枚だ。お前たちは大軍を率いたことがないから見誤るのだ。そして、軍には兵力が必要だと思っていたが違うようだ。少なくても、多く見せられる工夫が大事なのだ」

この言葉を聞いた家臣は驚くばかり。13歳の思考力とは思えぬ深さに一同感心したと言います。

 

21歳で信玄は人生の舵を大きく切ります。父、信虎が娘に今川義元の元へ行く隙を突いて、重臣と共にクーデターを決行します。今川との国境を封鎖し追放し、家督を継いでしまいます。

このクーデターを起こした理由は明らかになっていません。父との不仲説や信虎の家臣への振る舞いに難があったからとも言われています。

 

川中島の戦い

武田信玄の好敵手、上杉謙信の11年にもわたる戦いです。『甲斐の龍VS越後の虎』などと称されており、激闘が続きました。 川中島合戦は第5次までありますが、戦闘が起こったのは4次までです。これは、信玄が信濃の平定を目指したのに対し、謙信は自国を守るという、目標の相違があったからです。名軍師・山本勘助が考えた、啄木鳥戦法が出た第4次をもって信濃の大部分を平定したので、これ以降は正面衝突をせず(第5次は両軍にらみ合っておしまいです)、武田軍は飛騨や東海へと兵を向けています。

この度重なる合戦によって二人の間に特別な感情が芽生えていたという説は有名だと思います。信玄が病死した後も、侵攻しなかった謙信。今際の言葉として、子・武田勝頼にもしもの場合は上杉謙信を頼れという信玄。何度もぶつかり合ったからこそ感じあえる、二人だけの特別な関係なのだと思います。

 

海千山千の外交術・軍術

信玄の強さは外交力の高さにもありました。

第1次・第2次の川中島の戦いの間に、駿河の今川・相模の北条・甲斐の武田の三国で同盟を結んでおりました。上杉謙信を共通の敵とするためです。

しかし、第4次川中島の戦いが始まろうとする1560年、織田信長今川義元を桶狭間の戦いにて破ります。もはや信濃を取るところも少なくなってきた折の出来事です。

前述したように、信玄は方針を大きく変え、越後方面から駿河方面へ侵攻方向を移します。今川との同盟破棄には多くの反対がありました。今川とは姻戚による同盟だったため、嫡男を殺すことになるからです。しかし、信玄の考えは変わりませんでした。嫡男・義信ら側近を謀反の罪を着せ処刑。義信も廃嫡し、幽閉してしまいます。

 

そして1568年に駿河に侵攻を始めます。今川氏真率いる軍は武田軍の相手にならず、時待たずして崩壊。共闘した徳川軍と領土を分けて東海地方への侵攻が始まろうとします。

しかし、ここで待ったをかける人物がいました。三国同盟の盟主が一人、北条氏康です。同盟を勝手に破棄した上に、氏真の妻・早川殿(氏康の娘)を危険にさらしたからです。氏康は上杉謙信と同盟を組み、武田軍を攻め立てます。あろうことか、先刻まで共闘していた徳川家康とも領土分配の折り合いがつかず、今川家と北条家と和睦し、反武田の旗を揚げるように。四面楚歌の武田軍は急ぎ甲斐に撤退します。

 

信玄は帰還するや否や、すぐさま反撃の準備を始めます。まず、信長と足利義昭を通じて上杉謙信との和睦を成立させます。

そうして駿河へ再出陣。伊豆の北条所有の城を攻めつつ、反北条で東関東にいる常陸の佐竹義重や下総梁田氏らと呼応し、北条領へ圧力を加えます。氏政は兵力を分散させて対応しますが、その隙を突いて、信玄は北条氏本城である小田原城を包囲。氏政は慌てて散った将兵を召還させますが、これこそが信玄の本当の狙い! 包囲を解き、北条軍がいなくなった駿河に再々侵攻を始め、田中城等を攻め落とします。

 

各軍、目まぐるしい動きですが、この展開を先読みし、見事に駿河を取り戻すことができた信玄。外交力、軍事力が並外れていることが感じられます。

 

西上作戦

1571年に北条氏康が死没すると、甲相同盟が再締結され、駿河の土地を確保することとなります。次に目指すは西にいる三河の徳川になりました。

ゆくゆくは織田信長とも相手をすることを考えて、信玄は家康の居城である浜松城を攻城することを嫌いました。攻城戦は長期戦になりがちであり、軍を動かしづらくなるためです。

そこで、信玄は浜松城から北に5キロほどの地を行軍し、あたかも家康を素通りする素振りを見せ挑発しました。この挑発に家康が乗っかり、野戦へと展開。野戦に強い武田軍は2時間足らずで徳川軍を蹴散らしました。家康は浜松城に逃げ延びますが、空城の計を用いて、追撃を逃れます。

 

信玄は三河への侵攻が可能となり、東三河にある野田城を包囲し攻め落とします。しかしここで、持病(肺結核との説)が悪化し撤退します。甲府に帰ろうとするも、信濃駒場で急死します。

3年は死を隠すように勝頼や家臣に伝えましたが、この秘匿は少しずつ染み出すように漏れ、徳川・織田軍が攻め込む大きな隙となってしまいました。

 

 

 

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