武将データ | ||
なまえ | たけだ かつより |
Wikipediaより |
出身 | 信濃国? | |
家紋 | 武田菱 | |
主家 | 武田家 | |
享年 | 37歳(1546~1582) |
もくじ
武田勝頼の辞世の句
【朧なる 月のほのかに 雲かすみ 晴れていくへの 西の山の端】
歌意:ほのかに雲がかかって朧ろに霞んでいた月も、やがて晴れてゆくように見える山の端であるよ。(『晴れていくへ』=『行方の(目指しゆく方向),西方浄土へ行くこと』を掛けている。)
武田勝頼ってどんな戦国武将?
信玄の息子,勝頼の紹介です。
七人兄弟で唯一「信」の字を継いでいない
家督を継ぐ息子にしてはおかしいところがあるのをお気づきでしょうか。
例えば織田一族は、良信,信定,信秀,信長と続き、
徳川は家康,家忠,家光となっています。
そうです。親の字,いわゆる通字をもらっていません。
父,武田信玄は名族・諏訪頼重を滅亡させて、その娘である諏訪姫に惚れ込んで側室にしていました。この諏訪姫と信玄の間の子が勝頼なのですが、勝頼を武田家でなく諏訪家の正統とし、さらには武田家と諏訪地方の統合の象徴にしました。
これはすなわち諏訪家の存続であり、諏訪の人々はそれを喜んで、人質を甲府に送って武田家に忠誠を誓ったそうです。信玄がこれを狙ったのかどうかはわかりませんが、どちらにしても見事な策だったといえるでしょう。
父、信玄の死と対立
1573年に武田信玄が死ぬと、勝頼が家督を継ぎます。しかし、これは暫定の家督相続となりました。先述の諏訪氏の名を継いだことによる、家臣の反感を信玄が感じ取り、勝頼の嫡男、信勝を正式な跡継ぎとし、勝頼をその後見と定めたためです。
武田軍は豪族の集まりであり、一枚岩の軍勢ではありませんでした。信玄がもつカリスマ性によってなりたっていたのです。勝頼へと代替わりし、信玄が危惧していた、信玄派と勝頼派(諏訪派)に分かれていってしまい、当主への求心力は下がっていきました。
長篠の戦い
家督を継いだ翌年、勝頼は信玄でも落城させられなかった高天神城を陥落させます。勝頼にとっては、父を超えた大快挙であり、一説には、この時より気を良くした勝頼は、家臣のいうことをあまり聞かなくなったといいます。
勢いに乗った勝頼は、武田家から徳川家に裏切った奥平信昌親子の討伐を始めます。しかし奥平軍の抵抗は激しく、稼いだ時間を使って織田・徳川連合が長篠城に陣城を築き上げられてしまいます。
元々兵力で劣っていた武田軍でしたが、得意の野戦から攻城戦に変わってしまっことにより大苦戦。武田軍は1万もの死傷兵に加え、内藤昌豊や山県昌景らの将を失ってしまいました。辛くも退却ができた勝頼ですが、もはや三河国を攻める力は無くなってしまいました。
選択ミスにより敵を増やす
敗戦後は、関東の北条家との結びつきを強め、北条氏政の妹を後室に迎え入れます。また少し前に、足利義昭から甲斐武田・相模北条・越後上杉の和睦を呼びかけられており、武田家は上杉家とも良い関係を保てていました。
1578年に上杉謙信が病没すると、また暗雲が立ち込めます。謙信の養子である景勝と景虎の間で家督争いが始まります。俗に言う「御館の乱」です。勝頼は、両者の調停として参入していきます。当初、勝頼は北条氏政の弟でもある景虎を支持しますが、景勝が勝頼に多額の金と領土の割譲を提示したことによって、方針を転換。景勝側に回ります。徳川家から侵攻を受け帰国している間に、景勝の勝利が決まります。約束通り領土をもらいます。
北条氏はこれを武田家の裏切りととり、同盟を破棄。
上杉家との同盟をつなぐために北条家を敵に回してしまったのです。東西を敵に囲ませてしまった、勝頼痛恨の采配でした。
これを好機ととらえた徳川家康は高天神城の奪還に成功。武でも政でも、勝頼の威信は地に落ち、武田家を見限るものが続出します。
最期
家臣がどんどん離れていき、とうとう外戚の木曾義昌も織田側に寝返ることとなります。勝頼は激怒し、討伐軍を送りますが、これをきっかけに、織田・徳川・北条が総攻撃を仕掛けてきます。
大挙して押し寄せる敵に、将兵は次々に降伏。唯一抵抗したとされるのが、勝頼の弟の仁科盛信が有する高遠城だけでした。勝頼は小山田信茂の居城の岩殿城に逃げようとしますが、道中で突如信茂が裏切ります。追手に滝川一益の軍が迫っており、死を覚悟。天目山棲雲寺に行き、嫡男信勝、正室の北条夫人と共に自害しました。
こうして、約400年も続いた、名門・甲斐武田家が潰えることとなりました。
武田勝頼の墓は、徳川家康が建立した勝頼の菩提寺の景徳院(山梨県甲府市大和町田野)にあります。
境内に勝頼や夫人、侍女の墓が並べられ、静かに眠っています。