武将データ | ||
なまえ | しばた かついえ |
Wikipediaより |
出身 | 尾張国 | |
家紋 | 二つ雁金 | |
主家 | 織田家 | |
享年 | 62歳?(?~1583) |
もくじ
柴田勝家の辞世の句
【夏の夜の 夢路はかなき あとの名を 雲居にあげよ 山ほととぎす】
歌意:叶った夢とは最期の時までお市と添い遂げられたこと。ホトトギスに、自分が織田にどれだけ忠義をつくしてきたのかを、雲の上から後世に伝えてほしいといっている。
柴田勝家ってどんな戦国武将?
『鬼柴田』『かかれ柴田』でよく知られている柴田勝家です。
織田信長の忠臣として有名ですが、信長の父,信秀の亡き後は、信長の弟である信行に家督を継がせる立場であり、信長とは対立していました。
家臣と認められるために
反信長の立場にいた勝家は、信行の敗走を期に信長に謝罪。信長はこれを受諾し許しを得ます。
しかし、信行は家督相続を諦めず、信長殺害を計画します。勝家はこの動きに気付き信長に密告。戦を起こすことなく信行の誅殺に成功します。
勝家にとって家臣としての信を得られた第一歩でした。しかし、まだ認められきれなかったのか、尾張統一の戦ではお呼びがかかりませんでした。桶狭間の戦いでも重要な役割は任されませんでした。戦に出られないと戦功も上げられず、立場が苦しくなってしまいます。
そこで勝家は行動を起こします。戦の起こりを知ると、すぐさま駆け付け先鋒を買って出るようにしたのです。先鋒は被害が大きく、皆がやりたいと思える役ではありません。しかし、あえて名乗りを上げ、戦功を稼ごうというハイリスクハイリターンをとりました。
先鋒として勇猛に突撃する姿から『掛かれ柴田』の二つ名が誕生しました。こうして勝家は、家臣としての信用を積み上げていきました。
重臣(年寄)、そしてナンバー2へ
桶狭間の戦いから8年後、信長が擁する足利義昭の守り役に抜擢されます。積み上げた武功が花を咲き、重臣としての役を担うようになりました。織田軍が越前朝倉に侵攻し始め、浅井長政の離反を受け金ヶ崎撤退戦になると、勝家は長光寺城で六角家を撃退する活躍を見せました。続く朝倉義景、浅井長政との姉川の戦いでも武功を挙げていきます。
長島一向一揆では、第1次,2次と織田軍は大苦戦します。1次では勝家は撤退における殿軍を務めますが、旗指物を奪われ、当人も傷を負う大敗でした。殿の代わりを務めた氏家ト全が戦死するほど凄惨な戦況であったと言われています。
1573年、信長との対立が深まった足利義昭が、朝倉義景、浅井長政、武田信玄らに御内書を下し、挙兵します。信長は丹羽秀長や勝家に命じて、義昭側である石山城、今堅田城を攻め落とします。信長は降伏勧告として朝廷を動かし、義昭も朝廷を頼ったため講和が成立。この起請文に勝家の名の署名があることから、この時にはすでに重臣の立場になっていたことが分かります。
この後、一乗谷城の戦いや長篠の戦いでも参戦し、勝利に貢献します。1576年には、北陸の方面軍の司令官に任命されます。一度は上杉謙信に大敗を喫しますが、謙信の死没後、1580年に加賀を攻略することに成功します。時を同じくして、『かかれ柴田』と同じように名のあった『退き佐久間』と囃されていた佐久間信盛が石山本願寺の攻略に失敗し追放されたため、勝家が筆頭家老に昇りつめました。
信長の死と秀吉との対立
能登の魚津城攻略の際、本能寺の変が起きます。その変を知るまでに時間がかかり、そのまま魚津城を陥落させます。知らせが届き、急ぎ撤退しようとするも、敵方も気付きこれに苦戦。戻った時には、羽柴秀吉が明智光秀を討った後でした。
清須会議にて、勝家は3領の加増を受け、秀吉と申し合わせの上、三法師を跡継ぎとします。敵討ちを果たした秀吉の発言力は大きく、もはや秀吉と勝家の立場は逆になっていたといいます。勝家の不満も残る中、会議で話し合われたのがお市との結婚です。秀吉が事前に申し合わせたことによるものですが、勝家のお市への行為を知っての行動であり、この時すでに、秀吉の掌の上ともいえるでしょう。
勢力と権力が増していく秀吉に対し、勝家率いる織田家重臣が対立していきます。清須会議から1年を待たずして、勝家と秀吉の直接対決、賤ヶ岳の戦いが始まります。結果は秀吉の勝利。勝家は、お市を逃そうとしますが、お市はこれを拒否し、共に最期を添い遂げようと譲りませんでした。北ノ庄城にて、結ばれたばかりのお市とともに、人生の幕を下ろしました。
お市と辞世の句
お市の方の頁でもふれましたが、両人の歌にホトトギスがでてきます。これはホトトギスが『死出の田長(たをさ)』と呼ばれ、死の山から飛んでくるという言い伝えがあったことに由来します。そして、勝家の句は、お市の句への返歌となっています。お市の句にも元ネタがありましたが、勝家の句は足利義輝の句と少し似ています。死と隣り合わせの中生きる戦国武将にとって、辞世の句はどうしてもホトトギスが飛びがちなのかもしれません。