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細川ガラシャ(明智玉)【辞世の句】

武将データ
なまえ ほそかわ がらしゃ

明智玉 細川ガラシャ橋本明治 作

出身 越前国
家紋 なし
主家 織田家 豊臣家
享年 38歳(1563~1600)

 

細川ガラシャの辞世の句

【ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ】

歌意:散り際を分かっているからこそ花は花なのであり美しい。それは人にとっても同じである。

 

 

細川ガラシャってどんな戦国武将?

戦国武将ではありません。

信長によって決められた結婚

父に明智光秀をもち、母は光秀の正室である煕子です。名を玉(珠とも)といいました。よってこの頃の名前は明智玉といいます。

玉が15歳になった1578年、父の主君である織田信長からの主命婚として、勝竜寺城の城主である細川氏の嫡男、細川忠興に嫁ぐこととなりました。

主命婚ではあったものの、玉と忠興は仲睦まじかったと記録されており、結婚からの翌年、翌々年と長女、長男を続けて授かります。余談ですが、玉の容姿は整っていたとされており、忠興もイケメンであったとされ、人形のような夫婦であると信長から称されるほどでした。また、玉のことを見つめていた庭木職人を手討ちにしてしまったという噂もあります。。

 

全てを変えた本能寺の変と忠興の愛

そんな夫婦愛を育めたのも、わずか4年間だけの出来事でした。

 

1582年、本能寺の変が起こります。この後、明智光秀から細川家に対し、支援要請が送られてきますが、細川氏はこれに応じませんでした。羽柴秀吉の中国大返しの後、山崎の戦いにて光秀が敗れると、細川玉は『逆臣の娘』へと一気に評判を落とします。

 

煕子を始め、光秀に近しい者は自害しており、玉自身がその選択を取らずとも、刃が日に日に迫ることは間違いありません。

そこで忠興は、玉と離縁し、幽閉することを決めます。しかしこれは表面上のものであり、玉は細川家の親戚である清原家の元へ送り、清原マリアら侍女が世話をしたと言われております。世話役があるとはいえ、味土野と呼ばれる丹後国の山奥に閉じ込められた玉は、身寄りのいない寂しい生活を送ることとなりました。

 

1584年、秀吉の計らいにより、細川家に戻るように忠興に伝えました。しかし、逆臣の娘である咎は消えない為、行動を監視するという軟禁状態であることが条件でした。

 

心の隙に染みたキリスト教

軟禁生活が続く中、忠興が高山右近というキリシタン大名から聞いたカトリックにまつわる話を玉にしたところ、キリスト教に興味をもつようになります。

1587年、忠興が九州へ出兵すると、夫の不在とお彼岸の時期であるのを良いことに、身を隠すようにして教会へ赴きます。協会ではちょうど復活祭の説教の最中でした。玉はコスメ修道士に色々な質問をします。修道士は後に、玉について『これほど聡明果敢な判断力のある日本女性に会ったのは玉が初めてであった』としています。

玉は話をしていくうちに、キリスト教の教えに大きな感銘を抱き、その場で洗礼をしてもらうことを望みました。しかし、協会側は、明らかに身分を隠しているその様から、洗礼を見合わせることにします。

 

一方で、玉を含め侍女らの帰りの遅さを不審に思い、行動調査が入ります。ガラシャが屋敷を抜け出していることが見つかり、軟禁から監禁の状態に変わっていきます。

外出できないことには洗礼は受けられません。しかし、侍女を通じてキリスト教に関連する書物を読み漁り、信仰を深めていきます。清原マリアもこの期間に洗礼を受けたとされており、また、自身も何度か抜け出して協会にこっそり行ったということも言われております。

 

バテレン追放令

1587年、タイミングの悪いことに、豊臣秀吉からバテレン追放令が発布されます。宣教師は長崎に集められることとなりますが、宣教師が九州に向かう前に、大阪にいたグレゴリオ・デ・セスペデスが滞在先でひそかに洗礼を取り計らい、『ガラシャ』という洗礼名を授かりました。意味は『神の恵み』です。

 

洗礼を受けた後も、バテレン追放令のため忠興にも改宗を告白しませんでしたが、噂が徐々に広まっていきまうす。追放令から8年後、九州から戻ってきた忠興に改宗を告白しました。

これを聞いた忠興は激怒。見張っておかなかった侍女たちの鼻や耳を削ぐという暴挙にでます。ガラシャにも再改宗を迫りますが、首を縦に振りません。これに忠興は「側室を5人もつことにする」と言い放ち、夫婦間に溝ができ始めます。

 

ガラシャは悲しみに暮れ、宣教師に離婚したいことを打ち明けますが、キリスト教は離婚を禁じており、「困難に立ち向かってこそ報われる」と説教されます。

 

最期

1598年、秀吉が死没すると、日本全体がざわつき始めます。徐々に豊臣側と徳川側に二分していきます。忠興は徳川家康に従っており、上杉征伐へ向かっていました。留守にする際「もし、妻の名誉に傷がつくようなことがあったら、慣習に従い、妻を殺し、全員切腹をして妻と共に逝くように」と命じていました。

 

忠興の留守を突いたのが、石田三成です。ガラシャを人質にして豊臣側に付かせようと画策しました。使者を送りますが、ガラシャはこれを拒否します。報告を受けた三成は、屋敷の周りを兵士に囲ませ死ぬか従うかの2択を迫ります。

ガラシャは、「夫の命令通り、自分だけが死にたい」と言い、侍女らを逃がしました。キリスト教の教えにより、自害が禁じられているため、家老の小笠原秀清に介錯を頼みました。そして、遺体が残らないよう、屋敷に爆薬を仕掛け、火を放ったとされています。

 

ガラシャの死は、豊臣側の三成に大きな影響力を与えました。人質を取ることで、味方が増えるどころか、敵が増えかねない状況になったからです。

また、ガラシャは協会葬となりましたが、忠興は嫌がることなく参列し、キリスト教への歩み寄りを見せました。

 

ガラシャの辞世の句には、筋の通った強い意志が感じられ、その姿勢は多くの現代人に伝わるもののように思います。

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