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北条氏康【名言と辞世の句】

武将データ
なまえ ほうじょう うじやす 北条氏康

Wikipediaより

出身 伊豆国?
家紋 北条鱗(三つ鱗) 北条鱗 三つ鱗
主家 北条家
享年 57歳(1515~1571)

 

 

北条氏康の名言

『なかなかに 清めぬ庭は 塵もなし 風にまかする 山の下庵』

歌意:全く掃除をせず、手のかけていない山の庵だが、風に掃除を任せているので、塵の1つもない。

 

 

北条氏康の辞世の句

【雪折の 竹の下道 ふみわけて すぐなる跡を 世々に知らせむ】

歌意:雪が厳しく、雪で竹が折れてしまっているその下を私は通りぬける。そうして私が進んできた足跡を後世の人々に残すとしよう。(雪の引用は、雪が降る冬を今の厳しい世の中になぞらえている。また、生涯の歩みの足跡を、雪道を歩いてできた足跡と関連させている。)

 

 

北条氏康ってどんな戦国武将?

家督継承後の波乱

後々、栄えていく北条家ですが、氏康が子どものころは『北条』の姓ではなく、『伊勢』姓でした。父から北条姓を名乗るようになり、氏康が名乗ったのは、元服の後とされています。

氏康が家督を継いだのは、1541年のこと。15歳ころのことです。父:氏綱が亡くなった年ですが、隠居が先か死亡が先か定かではありませんが、どちらにしろ、家督を氏康に譲ることは決めていたようです。

 

家督継承の翌年、氏綱の死による隙を突こうと、山内上杉家と扇谷上杉家が川越へと侵攻してきます。氏康はこれを返り討ちにし、逆に上杉領へ侵攻しました。しかし、天文の飢饉が起こっている最中で、長引く行軍は不利とみて、領内の検地へと力を入れました。

さらにこの3年後の1545年、小競り合っていた今川義元から和睦の提案を受けますが、上手くまとまりませんでした。義元はこの結果に不満をもち、山内上杉憲政と扇谷上杉朝定と組み、氏康に対し挙兵します。義元は駿河の河東(北条家に奪わた領土)の奪還を狙い、上杉家は川越城を包囲しました。

東西からの挟み撃ちにあった氏康は絶体絶命であり、武田信玄に調停を頼み、河東の地を割譲することで、今川家と和睦となりました。領土を失うも、憂いの一つが消えたことで川越城に専念できることになった氏康。奇襲攻撃をかけ、扇谷上杉家を滅亡させることに成功しました。川越夜戦とよばれ、氏康が大将自ら先陣を切ったことでも有名な戦いです。

山内上杉憲政に対しても本拠である上野平井城まで攻め立てますが、憲政は越後にいる上杉謙信のところまで逃亡。そして、謙信に対北条家を頼ることになります。

 

決して小さくはない北条家ですが、隣国との攻防は絶え間なく続きました。家督継承から一時も落ち着けない日々を、氏康は送っていたのです。

 

 

三国同盟と謙信との戦い

義元と和睦をしたものの、いつ破られてもおかしくない日々が続きました。この状況を打破するべく、1551年から。武田氏と今川氏の両家それぞれに、婚姻交渉を進めていきました。氏康の娘(早川殿)を今川義元の嫡男(氏真)に継がせ、武田信玄の娘を氏康の嫡男(氏親)に嫁がせる方向で計画を進めました。

しかし、氏親が病に倒れそのまま病没。計画の頓挫を恐れ、すぐさま二男の松千代丸(氏政)を代わりとし、武田家に婚約者の変更を申し入れました。

 

1554年に今川家重臣の太原雪斎の仲介により、甲相駿三国同盟が締結。互いの有事には援軍を送るという同盟が結ばれることとなりました。

この後、ほどなくして氏康は嫡男の氏政に家督を譲り、隠居します。これは永禄の飢饉で困窮した民草を助ける目的として、代替わりの徳政令を出すためのものであったとされており、実際は小田原本城におり、実験は握ったままでした。

 

1560年に、上杉軍が関東に侵攻し、小田原城を包囲します。飢饉中の包囲戦であったため、1ヶ月も経たないうちに上杉陣営の兵糧が尽きかけ撤退。(信玄が川中島に海津城を建て、信濃北部での支配力を高めたことも上杉軍への牽制となった。)この戦いを経て、小田原城の守備力をさらに高めるべく、城下町を覆う城壁を建造するようになります。

また、上杉謙信という世に名だたる名将の攻撃を跳ね返したことで、氏康の名声も上がりました。『相模の獅子』とも呼ばれたことから、世間の氏康に対する評判が伺えます。

また、この戦いの後で、謙信側についていた里見家に襲撃をかけ、北条家の影響力は下総にまで広がることとなりました。これが氏康最後の戦と言われています。

 

三国同盟の破棄と最期

1568年、桶狭間の戦いにて、織田信長今川義元を破ったことで、今川家は加速度的に衰退。これを好機と武田家が今川家に侵攻。三国同盟が破られた瞬間でした。

北条家はかつて争った上杉家を次の同盟相手に選び、武田家に対抗しようとします。1569年には、武田軍が小田原城に侵攻してきますが、堅城はびくともせず、その頑強さに撤退。また翌年に駿河で武田軍と対峙しますが、この時病が進行しており、家族すら判別できないくらい衰弱していたとされています。

体調は回復することなくそのまま永眠。遺言として、「謙信との同盟を破棄し、信玄と結ぶように」との言葉を残して、この世を去りました。

 

 

エピソード

目安箱の設置

氏康の内政の代表作が目安箱です。徳川吉宗の方が行ったことの方が有名かもしれませんが、氏政の方がはるかに先に実施しており、領民の不満や要求を吸い上げようとしていた政治力の高さが表れています。

 

自害未遂

少年時のエピソード。家臣の武術稽古を見ていた氏康少年は、その迫力に圧されて気絶してしまいます。家臣に臆病者と思われたと感じた氏康は自害を決意します。しかし、親代わりとして育てていた傅役の清水吉政が、「臆病を自覚している者は、真の臆病ではない」と諭し、氏康の心を改めさせました。

 

 

娘の引き出物は水

三国同盟の時に今川家に送った、娘:早川殿。今川家に嫁いだ時に引き出物としたのは、まさかの『農業用水』でした。

千貫樋とよばれ、伊豆から駿河にむけて水を送るものであり、他国の民すら想う氏康の気持ちが表れていました。

 

逃げ傷が無い

氏康の生涯の戦の数は36回あったと言われています。川越夜戦に代表するように、大将格でありながら、前線にいることも少なくなかった氏康。しかし、氏康の身体には7つの刀傷があれど、全て身体の前側にしかありません。

つまり、背を向けて逃げて負ったものは一つもないということです。少年時代、気絶をしたところから考えると飛躍的な成長であり、在りし頃の氏康を知っている家臣からすると、臆病者と思っていた大将に奮起している姿を見せられることで、それが何よりも勇気づけとなり、士気の向上に役立っていたのかもしれません。

 

 

 

 

 

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