武将データ | ||
なまえ | とりい かつあき(すねえもん) |
Wikipediaより |
出身 | 三河国 | |
家紋 | ? | |
主家 | 武田家→徳川家 | |
享年 | 36歳(1540~1575) |
もくじ
鳥居勝商の辞世の句
【我が君の 命にかわる 玉の緒を 何に厭ひけん 武士(もののふ)の道】
歌意:私の主君の命に代わる宝玉の首飾りを、どうして嫌がることがあろうか。武士であるのだから。(『玉の緒』=『魂の緒』とかかり、命を意味している)
鳥居勝商(強右衛門)ってどんな戦国武将?
戦国武将ではありません。武将ではなく唯の一兵卒です。
長篠の戦いの影の功労者
勝商は元は徳川の家来でしたが、信玄の侵攻により武田軍に下り、信玄が死ぬと再び徳川軍に属します。こうみると軽い男に思いますが、このイメージを吹き飛ばすのが長篠での出来事です。徳川に属する奥平貞昌という男が長篠城の守りを任されていましたが、ある時、武田軍から侵攻されます。武田軍が1万5000の兵だったのに対し、奥平の守備兵は500しかなかったので籠城を決めます。城近辺の地形も助けとなり、なんとか防いでましたが、連日の攻撃により、兵糧を焼失させられてしまいます。兵糧がないと相手の撤退を待ちつづける籠城は難しくなります。
援軍を求めるという案が出されましたが、囲まれているため不可能であると思われていました。
どうにか包囲をかいくぐり、脱出をしないといけませんが、見つかったら打ち首は確定です。
この危険な役を買ってでたのが勝商です。彼は夜に城の下水口から飛び出し、得意の水泳で川を潜り、見事脱出に成功しました。援軍の旨を徳川本陣に伝えますが、運のいいことに、この時すでに織田・徳川の連合軍が武田と決着をつけるべく長篠に向かうことになっていました。
これに喜んだ勝昭は、長篠城の兵にむけて狼煙(のろし)をあげて伝えます。この狼煙をみた守備兵は歓喜し、その様子をみた武田軍が何か不安の心を抱き警戒します。勝商はもっと詳しく伝えようと自らの身を長篠城に走らせますが、警戒していた武田軍につかまってしまいます。
強右衛門への取り調べによって、織田・徳川の援軍が長篠に向かう予定であることを知った武田勝頼は、援軍が到着してしまう前に一刻も早く長篠城を落とす必要性に迫られました。そこで勝頼は、命令に従えば強右衛門の命を助けるばかりか武田家の家臣として厚遇することを条件に、「援軍は来ない。あきらめて早く城を明け渡せ」と城に向かって叫ぶよう、強右衛門に命令したのです。勝商はうなずきました。しかし次の瞬間こう叫んだのです。
「あと二、三日のうちに織田・徳川の援軍が来る。それまでの辛抱である」
以下の絵がその時の様子であり、敵兵に抑えられながらも、懸命に叫んでいるのが伝わってきます。
これに激怒した勝頼は勝商を磔にし、処刑してしまいます。
強右衛門の死を無駄にしてはならぬと奮い立った城兵たちは援軍が到着するまでの二日間、見事に城を守り抜くのです。
そして『長篠の戦い』開戦。
強右衛門の想いが実り、見事、織田・徳川軍は勝利を収めました。
戦いの後
鳥居勝商の死後、直の主である、奥平家は譜代家臣と同等の厚遇を受けることとなります。勝商の子である信商は父の戦功により100石を与えられます。
関ケ原の戦いの後、西軍に付いていた、安国寺 恵瓊を捉えることに成功し200石に加増。
また、後の子孫である13代目の鳥居商次は家老に就任。その血は、脈々と受け継がれ、現代でも続いていると言います。
また、明治から太平洋戦争にまでにかけて、主君の為に命を賭したことから、国定教科書にも載っており、一兵卒としては異例の抜擢です。
そして今は、 愛知県新城市の甘泉寺の山腹にて、静かに眠っています。