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大谷吉継【辞世の句】

武将データ
なまえ おおたに よしつぐ 大谷吉継

Wikipediaより

出身 近江国
家紋 対い蝶紋 対い蝶
主家 織田家→豊臣家
享年 36~42歳?(1559/1565?~1600)

 

大谷吉継の辞世の句

【契りあらば 六つの衢(ちまた)で 待てしばし 遅れ先立つ ことはありとも】

歌意:約束したのだから、どちらが死んでも6つの衢(仏教用語で、死後進む冥界)で待っていよう。

 

大谷吉継ってどんな戦国武将?

まず、辞世の句ですが、これは盟友,平塚為広への返歌です。

出自は不詳であり、出生年も定かではありません。

三成との仲

大谷吉継を語る時、石田三成の存在が欠かせません。二人は秀吉の小姓で会った時からの付き合いになります。ちなみに小姓時代のエピソードとしては、吉継は計算に秀でており、土木関係の資材調達や人員配分の調整で一役買ったといわれています。

三成とのエピソードでよく描かれるのが、大阪城の茶会エピソードです。当時、ハンセン病を患っていた吉継が茶会に出席し、みんなと茶を回し飲みするとき、皆が吉継が口を付けた茶碗から飲むのを嫌がったが、三成だけが平然と飲み干した。というものです。

しかし、このエピソードはもとより、吉継がハンセン病ということも当時の記録には残されておらず、創作の疑惑が濃厚です。ただし、眼の病気は患っていたようです。

他にも、有馬温泉に一緒に行ったなど、仲の良さが伺いしれます。

 

主君である豊臣秀吉が死に、また翌年に前田利家が死ぬと、いよいよ徳川家康に対抗できる人物がいなくなります。家康が会津征伐を行う際、三成が家康に向けて兵を挙げることを企てますが、吉継は「お前には荷が重い。物量的にも経験的にも将の才としても。」と超辛口コメントで諫めます。三成への友情があるからこその還元でした。

吉継と家康

このあとすぐに関ヶ原の戦いが起きますが、そもそも徳川家康と大谷吉継は仲が悪くありません。家康のことを「天下人とのしての器量を備えている」という発言の記録があり、家康もまた「視野がとても広く先を見通すことができる」と評し、お互いを称えていました。

 

関ケ原の戦い

吉継の諫言むなしく、三成は挙兵を準備。吉継は三成との友情を無視できなかったからでしょうか、負けると思っていても、見殺しにはせず、最大限の働きをします。関ヶ原の戦いでは開戦前の派閥引き込みが非常に重要でした。どっちにつくか定かではない勢力が多かったからです。

吉継は、北陸,加賀,越前の大名に書状を書き調略に成功。さらに東軍につい前田利長をニセ情報で操り、加賀に留めおくことにも成功します。開戦前は、裏切らないか気がかりである小早川秀秋を見張れる松尾山のふもとに布陣。

用意周到に幾重の策を張り巡らせてきましたが、タヌキ親父に一歩及ばず。裏切りに備えていたはずの脇坂,赤座,小川,朽木の四部隊が東軍に寝返ってしまいます。心配だった小早川隊にも襲撃を受け、壊滅してしまいます。とは言うものの、小早川隊15,000人に対して、迎撃に当たれた大谷直属兵はわずか600。しかし、それでも500mほど小早川隊を押し下げたという記録が残っており、吉継の必死の執念を感じさせます。吉継は自害しますが、小早川秀秋に呪いをかけたなどというエピソードも残っています。

 

今際に放った言葉は

「三成、地獄で会おうぞ」

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