武将データ | ||
なまえ | とよとみ ひでよし |
Wikipediaより |
出身 | 尾張国 | |
家紋 | 五七桐 | |
主家 | 織田家 → 豊臣家 | |
享年 | 61歳(1537~1598) |
もくじ
豊臣秀吉の名言
『主人は一年 部下は三年』
意:良い主人かどうかを見極めるには1年あれば十分だが、良い部下どうか見極めるのには3年かかってしまう。
『金銀を貯めこむは、良き士を牢に押し込むに等しい』
意:金は貯めるでなく、使わなければ有効ではない。
豊臣秀吉の辞世の句
【露とをち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢】
歌意:わたしの生涯は朝露のようにはかない人生だった。浪速の栄華、栄光も夢のようであったよ。
豊臣秀吉ってどんな戦国武将?
戦国一の出世男
百姓の出から天下人という、恐ろしい大出世をしたことで有名な秀吉です。
出世の第一歩は有名な話で以下のような話をよく聞くと思います。
秀吉は信長の草履を用意する役でした。ある冬、信長は草履が暖かいことに気づきます。信長は、秀吉が草履を下に踏んでいたのだろうと怒り責め立てます。しかし、秀吉はこう言います。「滅相もございません。信長様の足下がお冷えにならぬよう懐で温めておりました」この言葉を聞いた信長は、秀吉を草履長に任命しました。
しかし記録によると、秀吉は背中で温めていたそうです。信長に問いただされた時、背を見せると鼻緒の跡がくっきり残っていたそうです。
どこまで考えていたかは分かりませんが、もし懐に入れれば、跡はのこりません。それも考えていたのなら、秀吉は幼少時代からかなり切れ者です。
長短槍試合
ある時、信長が長い槍と短い槍ではどちらが有利かと家臣に尋ねます。論争になった時に、多くが短い槍の方が振り回しやすくて良いという中、ひとり「長い槍が遠くから攻撃できて有利だ」と主張。決着をつけるべく、足軽を50人くらいずつ預けて3日ほど訓練させ、試合をさせることになりました。
短い方が有利としたのは、槍の指南役である上島主水といい、足軽は皆、高名な主水のほうに付きたいと言い、えり分けられなかったため、クジで決めることになりました。
もちろん、秀吉はクジのはずれ側。木下(秀吉の当時の姓)側についた足軽は、意気消沈でした。
4日後の結果は・・・なんと秀吉側の勝利!
しかし、秀吉は特別な策を練ったわけではありません。主水方は寝る間も惜しんだ猛特訓を強いられ、精神的にツラく、士気が低かったのです。
一方秀吉はというと、3日間、自分の屋敷に招き、酒が好きな者と甘い物が好きな者に部屋を分け、前者は刺身が盛られ燗の付いた部屋に。後者は、大福やきんつば焼きが用意された部屋に案内したと言います。
この接待ともいえる歓待の理由は、心のチームワークを高めることでした。しかし、足軽たちもさすがに3日目には心配になります。試合に勝つ方法を秀吉に尋ねると、秀吉は『稲刈り』と『そば打ち』という槍の扱いを教えます。
『稲刈り』とは、稲を刈るように、相手の向う脛を叩く戦術。
『そば打ち』とは、相手の陣笠を真上からたたきつける戦術です。
この2つの打ち方を2部隊にわけ覚えさせ、合図をきめました。
さらに、相手の槍や陣笠を取ったら褒美も与える約束をし、士気は最高潮に達したところで試合開始となりました。
槍の無茶苦茶な使い方に、主水はケチをつけますが、秀吉は『いかに知恵を使って勝つかが主君への奉公だ』と言いのけます。この出来事に、信長に世話係でなく兵としてつかえると確信したそうです。
三日普請と墨俣一夜城
ある時、織田信長の居城である清州城の塀が洪水によって壊れます。 修繕にあたるように普請奉行である山淵右近に命令しますが、20日経っても遅々として進みませんでした。
秀吉は、そんな遅滞にチクッと言ったところ、右近を激怒させます。格上に対しての文句であり、信長も謝るよう命じます。しかし、秀吉は食い下がり、二十日もかけてできないのだから、自分が正しいと譲りません。信長は、「お前は何日でできるのか」と言うと、「三日で終わらせて見せます。」と啖呵を切ります。
そうして、現場監督を任されることになった秀吉。
やったことは以下のことです。
・修理箇所を10等分する。
・大工も10等分する。
・大工の組み合わせは自分たちで決める。
・どの担当箇所になるかはクジ
・最初に終わったチームは信長から報奨金が出ると伝える。
すると、先日までの動きが嘘だったかのように昼夜問わず、がむしゃらに働く大工たち。三日三晩、徹夜で仕上げたことで、見事にその約束を守ることができました。
仕上がりも完璧で、箒目がきちんと見えるくらい美しくなっていました。信長もその出来栄えに感心し、百貫の加増と足軽30名を秀吉に与えることになりました。
また、城つながりのエピソードとして、1565年ころの墨俣一夜城があります。
織田信長は、美濃国の斎藤家を攻略しようとしたため、軍事拠点となる砦が必要でした。重臣の佐久間信盛に築城を命じましたが失敗、次に柴田勝家にも命じましたが、これまた失敗。築城途中に、斎藤家の軍が襲撃してくるため、思うように作れませんでした。
頭を抱える信長に、秀吉は「7日足らずで建ててみせる」と直訴し、できなかったら打ち首という条件の下、任命します。
秀吉は、地理に詳しい蜂須賀小六を仲間に加え、築城に着手でします。秀吉がとった方法は、河川の利用でした。あらかじめ材木を切り分けておいたもの水運を利用し、また、夜に築城を進めることで、敵の発見を遅らせるというものでした。
最近、大手ハウスメーカーで、ある程度家の大体を作ってからトレーラーで運んでくると、上棟まであっという間というものがありますが、秀吉はまさにそれの先駆けとなるものでした。
結局、秀吉は3日ほどで、砦のほとんどを完成させることができました。
これが斎藤家の滅亡に繋がり、この功績もあってか、秀吉の下に、名軍師である竹中半兵衛が与力として付くことになりました。
辞世の句について
秀吉の全盛期はそれは凄まじいものでした。北は東北、南は九州まで力が及んでいました。領土的にとらえれば信長の比ではありません。
それなのに、辞世の句からは、物悲しさが伝わってきます。なぜでしょうか。
それは、絶頂期から幾時、病を患い始めた頃から徐々に山を転がり落ちて行ったからです。国内がごたつき 、キリストの宗教問題に取りかからねばならない中、秀吉は身体の焦りからなのか朝鮮出兵を強行します。
初めこそは連日連勝なるも中国から援軍が来ると敗退。両軍ともに疲れはてて和睦を結びます。この和睦は引き分けの意味の和睦なのですが、中国は面子をかなり気にする国だからと、秀吉の使者に形だけの降伏状を求めます。一方、日本側の使者、小西長行も、中国が降伏したように見せかけるという、お互いの使者が、口裏を合わせるように、相手国が降伏したようにして報告を持ち帰るようにしました。
秀吉は和睦の印に中国との(日本が有利な)貿易を望んでいたのですが、待てど暮らせど叶いません。これは使者が秀吉を恐れて、降伏の旨をだまっていたからなのです。
秀吉が問いただし、使者に真実を聞くと激怒。秀吉は厳罰を申しますが、石田三成ら多くの家臣に反対をうけます。これにより秀吉は家臣に離反されてる、バカにされてると思いました。
再び朝鮮出兵を目指しますが、失敗。泣く泣く朝鮮侵略を諦めます。
さらに病状は悪化。
すると問題になるのが後継者です。秀吉は元より後継者に恵まれていませんでした。息子を若くして病気で無くし、養子も謀反の疑いにより殺しています。
晩年近くにやっと出来た子も幼すぎて、家康をはじめ、他の配下にも豊臣天下を奪われかねません。
そんな内政,外交の不安に悩まされながら没したのです。憔悴の状態で過去を振り替えると、絶頂期の栄光は夢の様であり、その儚さが露のようだといっているのだと思います。