武将データ | ||
なまえ | くろだ よしたか(かんべえ じょすい) |
Wikipediaより |
出身 | 近江国 | |
家紋 | 黒田藤巴 | |
主家 | 小寺家→織田家→豊臣家→(徳川家) | |
享年 | 57歳(1546~1604) |
もくじ
黒田官兵衛の辞世の句
【おもひおく 言の葉なくて つひにいく 道は迷はじ なるにまかせて】
歌意:この世に思い残すことはない。今は迷うことなく心静かに旅立つだけだ。
黒田孝高(官兵衛)ってどんな戦国武将?
先を見据える力
官兵衛は播磨国の小寺家というあまり大きくない勢力のもとで仕えていました。周りの諸勢力は省きますが、主君は織田信長に付こうか、毛利元就に付こうか決めあぐねていました。大半の家臣は毛利側を勧めましたが、官兵衛は信長の才覚に気付き、猛烈な推薦によって織田側につくことになりました。
しかし、後に主君は反織田勢力と同盟を組むことになり、これが契機となり没落。これより官兵衛は独立。秀吉に仕えるようになり、次々と毛利攻略の策を授けます。策は次々とはまり、水攻めで追い込むまでに成功。
そんな折、『本能寺の変』の知らせが届きます。動揺する秀吉ですが、官兵衛はこう囁いたのです。
「君の御運開かせ給う始めぞ。能くさえ給え」
これは、運が開き始めているから上手におやりなさいという官兵衛の進言です。早馬の一報だけで、天下をつかむチャンスであると、先を見通しての発言でした。
口は災いの元
その才覚たるや、秀吉に一目置かれるかと思いきや、官兵衛も天下を目論む者という疑念が抱かれるようになります。秀吉の言葉に「恐ろしき者は徳川と黒田である。徳川は温和な人であるが黒田はなんとも心を許し難い人物である」というものがあり、警戒のほどが伺いしれます。
この秀吉の警戒心は、与えた石高にも表れています。官兵衛の活躍を鑑みると、数十万の石高を与えられてもおかしくないところですが、十万~十二万とかなり抑えられています。一説には、「百万の石高を与えてしまったら天下を取られてしまう」という発言もあったと言われています。(バテレン追放令に従わなかったからとも。)先見の明を見せつけてしまったがために不遇な扱いになってしまったことは、中国大返しでの発言は、失言であったといえるでしょう。
最大の敵は身内
秀吉に冷遇されたこともあり、官兵衛は出家。名を如水と改めます。家督も息子、長政に譲ります。そんな折、秀吉が死去。豊臣家臣がざわめき始めます。如水は近々天下分け目の戦いが始まるであろうことを見越し、準備を始めます。
いよいよ関ヶ原の戦いが開戦。如水はというと東軍、家康派に属していました。関ヶ原にはおりませんでした。如水の戦場は九州でした、西軍の大友義統が豊後国に侵攻をしたことを受けて、諸将を率いてこれに対峙。きちんと東軍の働きをしているかと思いきや、野心家,如水の心は西軍討伐だけにありませんでした。長引くであろう関ヶ原の戦いを予想し、その期間を使って、島津家の討伐にも向かい九州を平定しようとしていました。そして、この先、本当の天下分け目の戦いを起こす気でいたのです。
なぜ、そうならなかったのか。
舞台を戻して関ケ原。表面上の戦力は互角か、やや西軍が優勢かというところ。しかし、諸将の立ち位置の複雑さも関ヶ原の戦いの有名どころ。
息子、長政の活躍による、西軍勢力が次々と離反。最大の裏切りである、小早川秀秋の襲撃をもって何十、百日もかかると予想されていた戦いが、わずか一日で決着。だれもが予想しない終焉を迎えました。
関ケ原の最大の功労者ともいえる長政は、如水にとっては一番の愚行です。実際に、長政が如水に会った時も、ボロクソに貶しており、長政にしても武功の大きさを褒められるかと思いきや激しい叱責をくらい、さぞかし驚いたことでしょう。
何はともあれ、身内の功労?によって、真の天下分け目の戦いなるものが開かれることなく、徳川家康の天下となりました。ちなみに長政は53万石という大きな恩賞をもらいましたが、如水は(結果として東軍の戦功を挙げたのにも関わらず)恩賞をもらっていません。家康からも底心が知れないという評価を受けたためです。
織田、豊臣、徳川の三英傑すべてに仕えた珍しい武将ですが、その誰からも信を置かれなかったのは、すこし悲しいようにも思います。