武将データ | ||
なまえ | はたの ひではる |
Wikipediaより |
出身 | 丹波国 | |
家紋 | 丸に抜け十字 | |
主家 | 波多野家→織田家 | |
享年 | ?(?~1579) |
もくじ
波多野秀治の辞世の句
【よはりける 心の闇に 迷はねば いで物見せん 後の世にこそ】
歌意:弱ってしまった心の闇に迷うことがないならば、さあ後世に物を見せてくれようじゃないか。
波多野秀治ってどんな戦国武将?
マイナーな戦国武将である波多野秀治。京に近い位置にありながら、丹波国はスルーされがちです。
斜陽の家に迫られる決断
元々波多野家は、丹波の守護代である内藤国貞に打ち勝って国主となった家柄です。しかし、三好長慶と婚姻同盟を結びますが、ほどなくして離縁し対立。また、松永久秀と弟の長頼に八上城を攻城され敗走し、秀治が生まれたころは、すでに落ち目となっていました。
丹波国で勢力を拡大していた赤井(荻野)直正の力を借りて、八上城を奪還。少し安定感が出てきたかと思いきや、すぐにまた次の困難がやってきます。
織田信長の上洛です。足利義昭を擁して京の地に入ったのです。畿内の大名は信長への従属か否かを迫られます。
下した決断は従属。秀治はその証として太刀や馬を贈ります。また、川勝氏や荒木氏といった多くの国人衆も織田に付くこととなりました。
突如翻した反旗
しかしほどなくして、信長と足利氏が対立。信長包囲網の計画が立ち上がります。
京周辺の反信長勢力になり得る存在として赤井氏に白羽の矢が刺さります。協力要請を受けた赤井氏はこれを受諾。京の町に侵攻することこそありませんが、織田家の従属を完全に抜け出した格好となりました。
信長もこれに反応し、明智光秀を向かわせ赤井氏討伐に向かいます。近隣かつ恩のある赤井氏に刃が向けられることとなりましたが、このとき秀治は織田家従属の姿勢は変えませんでした。
光秀が諸豪族を次々と撃破し、赤井氏の領内に入ろうとすると、赤井氏は本拠の黒井城へ帰還します。城を囲んだ光秀との籠城戦になりますが、援軍の見込みがない赤井氏は風前の灯火。
しかし、突如として秀治は反旗を翻し、光秀の軍を急襲します。予想だにしなかった一撃に明智軍は敗走。大きく後退をせざるを得ない状況になりました。信長にとっても大きな誤算。短期決戦と見込んだ丹波国だっただけに、計画は頓挫。光秀を一度引っ込めて、計画の再考を余儀なくされました。
第二次丹波国討伐
一回目の丹波国討伐から二年後、信長は、明智軍に加えて細川氏の力も加えた軍に再編成。もう逃げることのできない秀治は八上城で籠城戦を敷きます。
1年半にわたる長い防衛戦でしたが、終盤には餓死者が続出。波多野家に味方していた所豪族も調略にかかり敵方へ。もはやこれまでと、降伏しました。明智光秀には人質を差し出すことで助命するといわれましたが、信長からは先の裏切りを許されず、安土の慈恩寺にて磔にされ処刑されてしまいました。
この第二次丹波国討伐の時には、兵力差は歴然。自分の死期も見えていたことでしょう。それでも恩のある赤井氏に付き、大軍と戦ったその気概が、辞世の句に表れていると思います。