武将データ | ||
なまえ | やまもと かんすけ |
Wikipediaより |
出身 | 三河国 | |
家紋 | 左三つ巴 | |
主家 | 武田家 | |
享年 | 69歳(1493~1561) |
もくじ
山本勘助の名言
『兵は詭道なり』
意:詭道とは欺くことであり、戦は元来正々堂々立ち向かうものではなく、策を弄して敵を騙すことにあるという教え。騙す戦が良い戦という訳ではなく、敵を騙してでも味方の兵を損なわないのが良い戦なのだと説いている。
山本勘助ってどんな戦国武将?
稀代の軍師
『ヤマカン』の語源でもあることで有名だと思います。
山本勘助は、上記の名言にもあるように、孫子の兵法を重んじていました。それに伴い、武田軍も孫子に準ずる戦法が多いです。
かの有名な『風林火山』も孫子です。
ちなみに風林火山には続きがあるのをご存知でしょうか。
~山の如し の後に
『知りがたきこと陰の如く 動くこと雷霆の如し』
と続きます。武田信玄は軍規に使えると思ったところだけ抜粋して『風林火山』を掲げたということですね。
川中島合戦
山本勘助を語るうえで欠かせないのが川中島合戦です。
先にいってしまいますが、勘助は4回目の戦いで戦死します。
その4回目について書こうと思います。
元々は流れ者だった勘助もこの頃には軍師にまで昇りつめてました。
この時勘助が出した戦略はかの有名な『啄木鳥(キツツキ)戦法』
啄木鳥戦法とは敵本陣を誘いだし、交戦状態となり防御が脆くなった大将を叩き潰す戦法です。
勘助の十八番の戦法でした。
武田軍は啄木鳥を採用し、気づかれぬよう敵本陣の背後に回り込みました。
しかし敵大将,上杉謙信は武田軍にスパイを忍ばせ事前に啄木鳥を察知。
上杉本陣に近づく別動隊に兵を割いて,逆に手薄になった武田本陣に,上杉軍は突撃を敢行します。
裏をかかれた武田は大混乱。名のある将がバタバタと倒れていきます。
勘助も軍師の立場にありながら、失策の責任を感じ敵陣に突撃。
68創もの傷を受け戦死します。
武田の別動隊も本陣陥落の危機を感知し急行します。
武田本隊はなんとか別動隊の到着に耐えます。すると上杉軍は挟み撃ちの状態になり形勢逆転。
上杉軍は急いで撤退します。
結果として戦死者を見てみると
武田軍 4500/20000
上杉軍 3500/13000
となりました。
コーエーテクモの無双シリーズなどやっていると実感がわかないかもしれませんが、当時は総兵の1割を失えば大敗戦と言われていました。
この4度目の川中島の戦いは歴史上極めて稀な激戦だったというわけです。
ちなみにこの戦いは、武田信玄の二度しかない負け戦の1つに数えられています。
山本勘助の墓所
川中島合戦で戦死した山本勘助は、長野県の陣ヶ瀬東高畑(じんがせひがしたかばたけ)というところに埋葬されました。これにより、この地は「勘助塚」とも呼ばれています。
その後、1739年に松代藩士が信州柴阿弥陀堂の境内に遺骨を移し、墓石を建立しました。(近くを流れる千曲川の流れにより荒れてしまったため。元々遺体を埋めてあったところは水没してしまったそうです。)
実は、山本勘助の墓はもう一つあります。なぜ二つも墓があるのか…理由はそう難しくありません。
もう一つの場所は、愛知県の長谷寺(ちょうこくじ)というところにあります。勘助が武田信玄に召し抱えられた時、勘助と親交のあった住職念宗和尚に対し、もしもの時にと遺髪を託しました。
川中島合戦での戦死の報せを聞いた和尚が、その死を悼み墓石を建立しました。