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豊臣秀長【名言】

武将データ
なまえ とよとみ ひでなが 豊臣秀長

Wikipediaより

出身 尾張国
家紋 五七桐 五七桐
主家 豊臣家
享年 50歳(1540~1591)

 

辞世の句

『かけて今日 みゆきを松の 藤浪の ゆかりうれしき 花の色かな』

歌意:「藤浪」は"藤原氏の系統"という意味も含まれている。兄の秀吉が関白就任時に藤原姓を
名乗っていたことから、その祝福の意を示している。

 

 

豊臣秀長ってどんな戦国武将?

影の功労人

豊臣政権の影の功労人、秀長の紹介です。性格は穏やかで人望の厚い武将でした。
「内々の儀は宗易、公儀のことは宰相(秀長のこと)」といわれるように参謀として腕を振るった秀長のポジションはとても重く、秀吉の弟であるだけでなく、唯一公私共に相談できる相手だったといいます。

また、兄を立てつつも遠慮なく諫言を言えるのは秀長だけでした。

秀長が死ぬと、豊臣政権はみるみる崩壊していきます。そのため『もし、秀長がもう少し長生きしていれば』というifの話が度々でてきます。

 

秀吉からのスカウト

秀長は秀吉と同様に、最初から戦国武将ではなく、百姓の出です。武家の出ではないため、幼少期の記録はほとんどありません。武士になったのは、秀吉が織田家に仕えてから15年ほどあとの事であり、秀吉がねねと結婚して少し経ったくらいです。

 

その時、秀吉は足軽の組頭となっており、数十人の部下を背負う立場でした。百姓の出としては大きな出世です。しかし、これからも戦功を挙げるには、もっと配下を増やしていかなければなりませんが、コネなどあろうはずも有りません。

そこで、最有力候補となったのが家族です。男兄弟は秀長のみだったので、スカウトする相手は秀長のみ。この時、秀長は村年寄りになるという目標をもっていたため、この誘いを一度断っていますが、熱い説得に負けて、武士となったことがスタートです。

 

農民の出のハンデとフォロー

秀吉があまりにも有名なので、農民からでも出世できるようなイメージがありますが、実際はそうではありません。家柄、家格というのは重んじられており、小ばかにするような武士も珍しくありませんでした。

秀吉はそんなマイナスのイメージに負けないような戦功を挙げる必要があり、戦だけでなく、調略や工作にも目まぐるしく動かないといけませんでした。そのため、留守にすることが多く、そんな間の家臣の諍いや不満を聞けるヒマもありませんでした。

 

そんな秀吉の隙間も埋めるように、秀長はフォローし続けました。この構図は秀吉が大名となっても続くことになります。秀長の温厚であったという性格が、下支えをする適役だったといえます。

 

ちなみに羽柴家の周りの義兄、義弟も家臣にしていましたが、あまり活躍の記録は残っておりません。農民のハンデを消し飛ぶような立ち回りをすることの難しさが伺えます。

 

 

秀長の死とブレーキの無い政権

秀吉は、秀長が死ぬと暴挙ともいえる行動にでました。例えば、千利休切腹、秀次抹殺、朝鮮出兵などです。

先ほど述べた『内々の儀は宗易』は千利休のことです。千利休と秀吉はあまり良い仲ではなかったのですが、秀長にその才を認められ、守られていました。しかし秀長が死ぬとすぐに殺されてしまったのです。

たとえ仲が悪かったとしてもこの行動はあまりにも軽率です。
秀長という片腕を失ったあとに、自らの手でもう一方の腕を落としてしまったのですから暴挙という他ありません。

側近をうしなったことで、ブレーキが利かなくなった秀吉は自ら堕ちていったのです。

ちなみに秀長がもう少し長く生きていれば徳川家康が手を出せなかったり、石田三成と加藤清正の豊臣勢の内輪もめが表面化しなかったりと、今後の歴史に大きくかかわっていたといわれています。

 

 

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