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朝倉義景【辞世の句】

武将データ
なまえ あさくら よしかげ 朝倉義景

Wikipediaより

出身 越前国
家紋 三つ盛木瓜 三つ割り木瓜
主家 朝倉家(足利家)
享年 41歳(1533~1573)

朝倉義景の辞世の句

【七転八倒 四十年中 無他無自 四大本空】

歌意:七転八倒して苦しんだ40年の生涯も、思えば他によるものでも、自分によるものでもなかった。この地上全ての万物も本来は何もないものなのだから。

 

朝倉義景ってどんな戦国武将?

よく言われるのが、戦国の優柔不断男

この辞世の句も、普通に見れば何ということはないのですが、義景が詠ったとなると、最後まで自分というものがはっきりしない人物を、際立たせるようにさえ感じます。

若くしての当主

朝倉義景は父、孝景が急死したことにより、16歳で当主の座を継ぐことになります。さすがに16歳では軍事政略は難しいので、実際は先々代から仕えていた、老将:朝倉宗滴(あさくらそうてき)が中心となって、家を支えていたとされています。義景は、宗滴に朝倉氏の長年の懸念事項だった加賀の一向一揆の成敗に向かわせます。首尾よくいくかと思いきや、宗滴が病に倒れ、亡くなってしまいます。

精神的支柱のような存在を失いながらも、国人衆、一揆の蜂起になんとか耐えていきます。

そんな折、幸運が舞い込みます。義景の母の生まれである若狭武田に身を寄せていた次期将軍候補である足利義明を保護することになりました。若狭武田の滅亡によるものだったので、後ろ盾がなくなる痛恨の出来事でしたが、将軍家の威光を借りることができるようになったのです。

一揆の和睦も結ばれ、加賀に平穏が訪れようとしたその矢先、今度は足利義昭が上洛(京に戻る)を要求します。この要求は何度もされていることが分かっていますが、義景は首を縦にはふりませんでした。京の周りにいる三好一派と戦って勝つ算段ができなかったからです。何度も伝えているのに聞いてくれない義景に、足利義昭は怒りと焦りを募らせます。そこで義明の目についたのが新進気鋭の急拡大勢力、織田家です。信長の力強さに惹かれ、織田家へと向かってしまいます。ちなみに義景は慰留したそうですが、跳ね返されたそうです。

 

僥倖を生かせず

将軍家の後ろ盾を失い、消沈するかと思いきや、あまり時を待たずとして、勢力を急拡大しながらも将軍家を敬わない信長が、義昭と対立し始めます。義昭は朝倉をはじめとする諸大名に包囲網の形成を呼びかけます。一方信長も、朝倉に味方として京に上るよう要求。義昭はこれを断りますが、信長の怒りを買い、3万の大軍で朝倉家を責め立てます。追い込まれたと思いきや浅井長政が突如裏切り、逆転、信長を窮地に追いやります。しかし、織田家の殿、羽柴秀吉、明智光秀の奮戦のおかげで仕留めることができませんでした。

体制を立て直した信長は、裏切り者の浅井家を攻めていきます。浅井家は当然の如く、朝倉家と戦線を共にし対処に当たろうとしますが、義景の優柔不断発動。即決しなかった義景の判断のせいで、行軍が大幅に遅れます。結果的に長政の奮戦虚しく、浅井朝倉連合軍は姉川の戦いで敗れてしまいます。それでも長政は北近江に織田を引き付け、甲斐の武田の西上による挟撃を狙いますが、なんと義景が積雪と疲労を理由に本拠越前に独断で帰国。むしろここで優柔不断を発動してくれれば、歴史は違うものになったのかもしれませんが、ここでは、武田家から再出兵の要請も跳ね返しています。後に、信玄から義景への怒りの手紙が見つかっています。

この後すぐに、信玄が病死、信長は足利義昭の追放も成功し、浅井、朝倉を苛烈に攻め上げます。義景は親族に援軍を求められるも拒否され、それどころか織田に寝返ってしまう始末でした。次々と城を落とされ、命からがら逃げますが、次々に裏切りに遭い、自害という最期を迎えます。

大河ドラマ『麒麟がくる』でも、ひどい描かれ様でしたが、機運に乗ることができず、優柔不断さ、慎重さが裏目に出続ける人生を送っています。

和歌や絵画などの芸の才は光っていたという朝倉義景。今川氏真同様、当主が持つべき才を持てず、時代に愛されなかった悲しい人物だともいえそうです。

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