新着記事

辞世の句

島津義弘【辞世の句】

武将データ
なまえ しまづ よしひろ 島津義弘

Wikipediaより

出身 薩摩国
家紋 丸に十文字 丸に十文字
主家 島津家→豊臣家
享年 85歳(1535~1619)

 

島津義弘の辞世の句

【春秋の 花も紅葉も とどまらず 人も空しき 関路なりけり】

歌意:春の桜や、秋の紅葉が散ってしまうように、人の命もはかないものだ。(ここでの関路は関ヶ原からの道のりをさす。)

 

【天地(あめつち)の 開けぬ先の 我ならば 生くるにもなし 死するにもなし】

歌意:私は生まれてはいない存在であるのだから、生きることもないし、死ぬこともない。

 

島津義弘ってどんな戦国武将?

辞世の句が深くて、現代語訳しにくかったです 汗

 

島津四兄弟

島津家の歴史は古く、平安までさかのぼることができます。

薩摩国に生まれ、九州を平定を目指したのが島津四兄弟です。長男『義久』二男『義弘』三男『歳久』四男『家久』です。4兄弟とも武芸に優れたことで有名で、特に異彩を放っていたのが義弘でした。

 

島津戦術 釣り野伏

義弘が大きく名を馳せることとなったのが、『九州の桶狭間』とも謳われる1572年に起こった『木崎原の戦い』です。日向を支配する伊藤義佑が3000の兵を率いて進行してきたのに対して、義弘は300の兵で迎え撃ちました。

九州の桶狭間と呼ばれる理由は、島津の急襲戦術、『釣り野伏』にあるからです。釣り野伏とは、軍を三軍に分け、両側を伏兵として忍ばせます。残った一軍が敵と相対し、敗走に見せかけて後退します。追撃しようとする敵を伏兵地点に誘い込ませ伏兵二軍が攻撃、また、後退したした一軍も反転し、三方向の攻撃が完成します。寡兵を敢えて利用する高等戦術であり、これを成功させた義弘の名は一帯に轟くようになりました。

 

あと一歩の九州平定

四兄弟の快進撃は止まらず、北九州を支配し、豊後から遠征してきた大友家や肥前の龍造寺家、肥後の阿蘇家などを倒していきました。

以前の九州は『大友・島津・龍造寺の三氏鼎立時代』と呼ばれていましたが、島津家の急拡大により、龍造寺家は滅び、大友家も風前の灯火というとこもまで迫り、九州平定に大手を掛けました。

しかし、大友家が羽柴秀吉に助けを求めたことで大きく大勢が変わります。この時、すでに関白となっていた秀吉の軍事力は強大で、20万という大軍で九州に乗り込みました。

根白坂の戦いでは、義弘当人が抜刀し敵陣に切り込む奮戦を見せましたが、兵力差はどうにもならず、敗北してしまいました。この戦の後、兄義久から家督を譲られたといわれていますが、実質的にはこれ以降も義久が政治軍事の運用を担っていたため、形式的なものであったと考えられます。義弘は上洛し、正式に豊臣政権の下につくことになりました。

 

関ヶ原の戦いと捨て奸

秀吉の下につくと、朝鮮出兵に従軍します。文禄、慶長の役両方に出兵し、義弘を総大将として1万の軍で乗り込みました。中でも有名なのが、泗川(しせん)の戦いです。

豊臣軍は3城を抱え込み、その中央の泗川倭城を島津家が受け持っていました。慶長三年、10万前後に及ぶ朝鮮・明の連合軍が3城に同時攻撃をしかけきます。連絡,行軍の要である泗川倭城が落とされると非常に不利になるため、立花軍が援軍を申し入れますが、義弘はこれを断ります。数倍の戦力がある中、大量の鉄砲を用いて籠城戦を行い、朝鮮軍の火薬庫に引火し火が付くと敵は混乱、この機に乗じて開城し攻勢に打って出ます。得意の伏兵を用いながら、義弘も自ら四人切り伏せたという記録が残っており、怒涛の攻撃で劇的な勝利を収めました。この苛烈な攻撃に恐れをなして、義弘は朝鮮軍から『鬼石蔓子』(グイシーマンズ・おにしまず)と呼ばれました。

結果的に朝鮮出兵は苦戦続きで失敗に終わりますが、島津家はこの出兵で唯一加増の恩賞を受けており、その高い武力が改めて知られることとなりました。

 

秀吉の死没後に起こるのが関ヶ原の戦いです。義弘は結果的に西軍として参戦しますが、そこまでの道のりは簡単ではありませんでした。

関ケ原の戦いから一年前、すでに家督は、息子の忠恒に継いでおりました。その忠恒が屋敷で重臣、伊集院忠棟を切り殺すという暴挙に出ます。忠棟は義久の筆頭家老であり、軽々に殺せる立場の人間ではありません。斬殺の理由に、忠恒が朝鮮出兵で補給の滞りの原因が忠棟にあると考えていたり、石田三成から叛意があると伝えられたと言われていますが、正確な記録は残っておりません。これにより、忠棟の嫡男、忠真が島津家に対して反旗を翻すことになります。義久の降伏勧告をはねのけ、忠真は籠城を決意。『庄内の乱』の始まりです。

この時、徳川家康は義弘に対し、援軍が必要なら派兵すると、島津家を助ける意向を示していました。実際に派兵はしませんでしたが、乱鎮圧の調停役として家康が出張ることになり、後に義弘は家康の元にお礼に参っています。この面会後の食事の折に、家康から伏見の留守番を命じられます。義弘は恩を受けた家康に報いようと九州に派兵要請をします。この時、義弘は完全に東軍側でした。しかし、待てど暮らせど、一向に派兵の連絡が来ません。何度も要請しても一向に送られてきません。一方で、石田三成からも西軍としての参戦要請が来ます。義弘はこれを固辞してきましたが、現状どっちつかずの宙ぶらりん状態でした。九州から派兵が来なかった原因には、義久の意思がはたらいたと考えられています。豊臣側についたものの、九州の雄である『名君』としての誇りがあり、どちらかに付き従うことを嫌い、公儀から距離を置きたかったからといわれています。

焦る義弘は、ひとまず自分だけでも伏見城に向かいます。しかし、あろうことか入場拒否。家康の親書を持っておらず、ずっと立場が不安定な義弘は、西軍に通じているのでは以下と伏見城の留守居役、鳥居本忠に勘繰られたためです。(元々、上杉討伐に向かっていた家康に対し反対派も多く、徳川体制の是非を見られていたという考えもあります)

 

結果的に義久の軍役拒否は、反家康派の行動ととられ、西軍として従軍します。この従軍は本意ではなかったかもしれませんが、一度西軍に付いた義弘は容赦なく、少し前までは守るべきだった伏見城の攻城に大きく貢献し、落城にいたるまでとなりました。この時、義弘の軍はあまりに寡兵でした。結局、島津家からは軍が送られてくることはなかったので、有志で主君を守ろうとした1500の兵が集まったばかりでした。しかし、寡兵と言えど、本来の任を蹴って、自分の意志で集まった1500。決死の覚悟は既にできており、よく関ヶ原の『たられば話』で、義弘に5000の兵が付いていたら結果は違ったかもしれない、などと言われています。

結果として西軍は負けることになり、撤退戦が始まります。ここで有名になったのが、

『島津の退き口』、『捨て奸』です。

撤退戦には殿が必要です。最後尾で追撃をどれだけとどめておけるかに、その成否がかかっています。すでに周りの将兵が裏切りって東軍についている関ケ原、義弘はあえて退却側ではない、敵陣を突破する方に突撃し活路を見出そうとしました。この有り得ない退路の作り方に、東軍の諸将は驚きます。また、殿軍の強さが半端ではありません。この秘密は『捨て奸』という義弘の戦術にありました。一般的には、足止めをしつつ自分も退却するのが殿ですが、この時の殿兵は、その身が朽ち果てるまで敵を食い留めるというものでした。元々、有志で集まった屈強な兵、精神力もものすごく高く、死兵となった殿軍は尋常ではない強さだったと言われています。誰もが不可能と思った、奇跡の脱出劇を見事にこなしました。

 

戦のあとは、特に徳川側から咎められることはなく、大隈で隠居し、若者の教育に力を注ぎました。享年83歳、長生きした義弘が育てた若者の子孫が、後の薩摩藩となり倒幕へとつながるところが、歴史の趣深いところだと思います。

 

 

 

 

 

↓よろしければクリックをお願いします。

-辞世の句
-

Copyright© 戦国武将〜辞世の句・名言から生き方を学ぶ〜 , 2022 All Rights Reserved.