武将データ | ||
なまえ | いい なおまさ |
Wikipediaより |
出身 | 遠江国 | |
家紋 | 彦根橘 | |
主家 | 徳川家 | |
享年 | (1561~1602) |
もくじ
井伊直政の辞世の句
祈るぞよ 子の子のすへの 末までも まもれあふみの 国津神々
歌意:彦根初代藩主として願う。住む子々孫々までどうか守ってほしい、近江に根付く神様たちよ。
井伊直政の名言
『たちそふる 千代の緑の 色ふかき 松の齢を 君もへぬべし』
歌意:千代もの間、深い緑でいる松のように、あなたもそうであってほしい。(家康のために、松のように長生きしてほしいと詠んでいる)
井伊直政ってどんな戦国武将?
徳川三英傑、徳川四天王、徳川二十八神将に選ばれた、言わずと知れた名将です。
元々は外様
元々井伊家は、遠江の国人衆でした。そのため、井伊家は今川家に仕えている立場となります。永禄3年、桶狭間の戦いで今川義元が敗れると、息子の氏真に、井伊直政の父、直親は謀反の嫌疑をかけられ殺されてしまいます。直政も今川家から命を狙われますが、今川家の家臣から助命の願いを受けて救われ、母と暮らすことになります。
母が、徳川家臣に再嫁し、徳川家に直政を仕えさせようとします。天正3年に目論見通り、家康に見いだされ、旧領である伊井谷の領有も認められました。ここから家康の小姓としての人生が始まります。
着々と武功を挙げ、22歳の元服で『直政』と名乗ることになります。この年は本能寺の変が起こった年であり、家康の伊賀越えにも付き従いました。
井伊の赤備え
井伊直政といえば、『赤備え』とよばれる赤い具足が有名です。天正壬午の乱の後、家康が信濃甲斐を併合すると、武田家の旧臣、兵を部隊に組み入れます。この時、直政は侍大将となり、この部隊が武田の戦法を継承し、また山県昌影の小幡赤武者隊も継承したことで、この軍装となりました。この2年後に起こる、小牧長久手の戦いにおいて、池田恒興という将を打ち取ったことから、『井伊の赤備え』として他国に恐れられるようになります。
直政は部名だけでなく、政治的な手腕も評価が高かったとされています。先の天正壬午の乱でも北条氏と和平交渉を結び、秀吉死後は豊臣の武将を徳川に引き抜いていきました。関ヶ原の戦いでも、複数の武将を西軍から東軍へ引き入れました。西軍の総大将毛利輝元との講和も引き受け、家康への忠義を誓わせています。
家康はそんな優秀な直政を非常に厚遇します。もとは外様の直政でしたが、最終的には譜代以上の待遇であり、彦根城が築城されると、30万石の彦根藩がおかれ、藩主となります。彦根藩は明治時代まで栄えることとなりました。
厳しい管理
ちなみに直政は部下に非常に厳しかったとされています。小さなミスも絶対に許さず、元家康の部下が直政の領に移った時、「直政は厳しすぎるから、家康の配下に戻してほしい」という記録が残っています。ちなみに家康は直政を非常に気に入っていたため、直政の軍団育成を期待し、勝手に直政の下を離れることは許さなかったとか。。