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辞世の句

吉川経家【辞世の句】

武将データ
なまえ きっかわ つねいえ 吉川経家

Wikipediaより

出身 因幡国
家紋 輪九曜 輪九曜
主家 毛利家
享年 35歳(1547~1581)

吉川経家の辞世の句

君の名を あだになさじと 思ふゆへ 末の世までと 残しおくかな

歌意:あなた(=秀吉?)の名前をかすまぬように永久にのこしておきたいものだ

武士(もののぶ)の 取り伝えたる 梓弓 かえるやもとの 栖なるらん

歌意:我が家にある梓弓は、私の死後も次代の者が受け継いでくれるだろう。

 

吉川経家ってどんな戦国武将?

辞世の句をきちんとしたためられるほどに、覚悟をもって死地に向かった戦国武将が吉川経家です。

 

自分の首桶をもって出陣

毛利家の家臣である吉川家。経家の名を轟かせることになるのは、最期の戦の時です。

織田信長が、天下統一まであと少しという天正9年の話。信長は羽柴秀吉に因幡国の侵攻を命じます。

秀吉が鳥取城の手前まで侵攻したとき、秀吉は開城を要求しましたが、城主である山名豊国はこれを拒否しました。これを腹を立てた秀吉は豊国の重臣の妻子を殺し、豊国の娘を磔にしました。

こうなったら徹底抗戦、というのが普通ですが、豊国は降伏をきめました。家臣は茫然。体勢を建て直そうと城主豊国を追放します。豊国に変わって入城したのが吉川経家です。

このとき経家は自身の棺桶を持って入城したといいます。
つまり負け戦を覚悟で臨んだのです。

 

敵に涙を流させる名将

今回は城の防衛戦。劣勢でもあったので籠城を図ります。急いで食糧の備蓄を準備しますが、かき集めても3ヶ月もつかというところ。取り囲まれていない状況で3ヶ月分とは余りに少ないです。これには秀吉の工作がありました。周りの食糧を大金で買い占めていたのです。

 

また籠城戦が始まると、秀吉は補給線路の完全断絶のみを行い、あとは動くことをしませんでした。俗にいう『渇え殺し』です。

4ヶ月籠城の末、餓死者が出始めたところで降伏を決めます。籠城で降伏とは大将の死。しかし秀吉は経家の入城の経緯を知っており、その武勇を惜しんで自刃の代替案を提案します。それは家老の自刃。しかし経家は断固拒否。家来を殺してまで主が生き延びるなど、武士の恥であると考えたのです。これを受けた秀吉は泣く泣く承諾。せめてのものとして、酒宴の用意を城に送りました。経家は快く受け取り最期の晩餐を行い、翌日自害によりこの世を去りました。

 

武功こそ上げてませんが、経家武名はこの上ないくらい上がりました。

家臣を想う心持ち。求心力もさぞかし高かったことでしょう。

 

ちなみに辞世の句ではありませんが、経家は、吉川家当主広家、家臣、子ども達にそれぞれ遺書を送っています。死ぬ日が今日か明日かも分からないう戦国の世で、これほど丁寧に死への準備ができた武将も珍しいかもしれません。

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