武将データ | ||
なまえ | いまがわ うじざね | Wikipediaより |
出身 | 駿河国 | |
家紋 | 足利二両 赤鳥紋 | |
主家 | 足利家 → 徳川家 | |
享年 | 77歳(1538~1615) |
もくじ
今川氏真の辞世の句
【なかなかに 世をも人をも 恨むまじ 時にあはぬを 身の咎にして】
歌意:もはや、世も人も恨みはしない。時代に合わなかった私の罪なのだから。
今川氏真ってどんな戦国武将?
天下の愚将と名高い氏真です。父、義元から受け継いだ大国を潰してしまったことから、この悪評が消えることはありませんでした。
氏真に暗愚の評がつくまで
桶狭間の戦いで義元が敗れた時、今川家の重心も同様に討ち死にしました。今川の体制を支えてきた骨組みがいなくなり、駿河を始めとする近辺の国人衆も離反の動きが高まりました。氏真は安堵状を送ったり、人質を要求したりと、色々策を練りましたが振るわず。松平家(後の徳川家)が今川家から独立をすると、家臣や国人衆の離反が加速。
義元の時に結んでいた、武田家との甲駿同盟もこの頃に破綻。今度は武田家が徳川家と同盟を結び、駿河、掛川城へと侵攻してきます。氏真は奥さんの早川殿の実家である北条家を援軍として差し向けてもらいますが、解決には至らず。掛川城の包囲が続く中で和睦が結ばれます。家臣の助命と掛川城の開城が約束され、されに、後々に氏真をもう一度駿河国主にするという盟約も松平家と結びました。
しかし、この盟約は果たされることなく、駿河の国を統治することはありませんでした。この後、今川家臣が徳川家からの攻撃に耐えられなくなり、降伏し、これを機に今川家と徳川家の立場が逆転します。ここで氏真の悪評が決定的なものとなります。
この後は、特に大きな戦が起こることなく、北条家に身を寄せ、北条氏政死後、徳川の庇護を受けて、77歳、江戸にてその生涯を終えることとなります。
氏真の罪
辞世の句は何とも悲壮感が漂っています。氏真は蹴鞠、和歌に秀でいたとされます。しかしそれも、戦国の世に役に立つものではありません。こと戦において采配を振るわすことができなかった、ただただそれだけが時代に合わなかった私の罪なのである。と自虐的な言葉で幕を下ろします。現代に生まれていれば文化人として花を咲かせたであろう氏真は、東京都杉並区のの観泉寺にて、今も静かに眠っています。