武将データ | ||
なまえ | やまうち かつとよ |
Wikipediaより |
出身 | 尾張国 | |
家紋 | 丸に土佐柏 | |
主家 | 織田家→豊臣家→徳川家 | |
享年 | 61歳(1545~1605) |
もくじ
山内一豊の名言
『命を捨てる覚悟で運を拾わねば、運など拾えるものではない』
山内一豊ってどんな戦国武将?
内助の功
まず読みですが、一般には『かずとよ』と呼ばれていますが、記録では『かつとよ』の線が濃いようです。
それでは一豊の紹介です。おそらく一豊よりも奥さんの方が有名だと思います。
奥さんというより奥さんのエピソードなのですが、この方は『内助の功』の語源になった人物です。
馬を買うお金がなく困っている一豊を見かねて、金10枚を渡し駿馬を買わせたという話です。
この美談が軍の中で広まり、一豊は名士のようになりました。一豊はこの恩義と持ち前の義理堅さから、他の妻、いわゆる側室を全くとりませんでした。
目立った活躍がないけど出世
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、三英傑に仕えた一豊ですが、実は将としてはあまり活躍していません。それほど腕力も知もなかったといわれています。
それなのに最終的に土佐一国を任されるようにまでなったのはなぜでしょうか
それは関ヶ原の戦いの出来事があったからです。一豊の人生最も大きな転機でしょう。正確には、関ヶ原開戦前の『小山会議』でのことです。
小山会議とは家康が秀吉に縁のある諸将を集めた会議で、次の関ヶ原の戦いにおいて石田三成に付くか家康に付くか決めて欲しいという会議のことです。
一豊は福島正則という武将についで二番目に家康に付くと表明しました。
これだけではインパクトが弱いと思うでしょうが、一豊は従属の意思をするやいなや続けてこう言いました。
「従属するだけでなく、我が城を兵糧と共に差し上げる所存です」
普通の従属とは軍をつかせるというだけで、城を明け渡すなどあり得ません。
城主という大切なポジションを捨ててまで従うといった一豊が強烈な流れをつくったことにより、他の将も従わざるを得なくなり、また同様に城を明け渡すことになりました。
家康はこの対応のお陰で、開戦後の裏切りなど心配することなく戦に臨めました。
関ヶ原の戦いでは一豊は後方の部隊であったため、何の武功もありませんでしたが、家康は土佐一国を褒賞として与えました。
側近の将兵はその対応に口を挟みましたが、家康は
「槍を振るうた功など誰でも出来る。されど、対馬守(一豊)の一言で関ヶ原の戦いは勝利できたのだ」
と言って退けました。
裏話…ただのパクリ?
これで終われば良いのですが、実は上記の話しには裏があります。
実は城を明け渡すという案、一豊が考えたものではありません。
小山会議の前、一豊と仲の良かった堀尾忠氏という武将が、徳川につき、かくなる上は城も明け渡すつもりだと一豊に話していました。
そうして会議が始まると、一豊は忠氏が言う前に案をパクり発言したのです。
名言は堂々としてるくせに、意外とちゃっかり者の一豊でした。