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柳生石舟斎(宗厳)【名言】

武将データ
なまえ やぎゅう せっしゅうさい (むねとし/むねよし) 柳生石舟斎

Wikipediaより

出身 大和国
家紋 地楡に雀 地楡に雀
主家 筒井家
享年 78歳(1527~1606)

 

柳生石舟斎の名言

『兵法の かちを取りても 世の海を わたりかねたる 石の舟かな』

 

歌意:兵法で勝っていても、乱世という海を渡ることのできない石の舟であるよ。『かち』は『勝ち』と『舵』の掛詞。舵をとっても~ を受けて、海に繋げている。

 

柳生石舟斎(宗厳)ってどんな戦国武将?

剣聖の異名

知る人ぞ知る剣聖、石舟斎の紹介です。
知名度こそ低いですが、歴代の剣豪をあげるなら、宮本武蔵と肩を並べられる人物です。

前項の句もその一つなのですが、彼は『兵法百首』といって兵法を多く綴っています。

その中でよく使っている語は『石の舟』です。
兵法とは石の舟といっています。

どういうことかというと、石の舟は重くて浮かばない=兵法は浮かばれないもの
と比喩しています。

拳を射られたり、落馬で重体になったりとその生涯の苦労からそう綴ったのでしょう。

 

しかし、石舟斎はこうもいっています。

『兵法とは腰にある刀のようなものである。普段は全く必要ないが、いざという時、とても大事なものになる』

万が一の事も想定することが武士のたしなみであると考えています。

剣の業は力のみにあらず。このような心構えが彼の剣豪たる所以なのでしょう。

 

 

秘儀:無刀取り

柳生石舟斎が一番極めた剣技は【無刀取り】と呼ばれるものでした。

当時、剣聖と謳われた『上泉信綱』と手合わせを申し込んだところ、まずは信綱の弟子とやることに。剣術には絶対の自信があった石舟斎ですが、まさかの2連敗。それでも頼み込み、信綱とも手合わせをします。

そこでやられたのが無刀取りです。「刀を取る」と宣言された上でとられる惨敗を喫した石舟斎は、その場で弟子入りを志願します。

 

そこから血のにじむような特訓を重ねます。2年の時を経て、免許皆伝にこぎ着けます。信綱の流派は新陰流といいますが、石舟斎はこれを『柳生新陰流』とし、進化させていきました。

 

時は移ろい、1594年。石舟斎の噂を聞きつけた徳川家康が、京都の宿に呼び寄せて、「無刀取りを見せよ」と要求します。

石舟斎はこれに応え、木刀をもった家康と向き合います。石舟斎は素手で応対し、一瞬のうちに、家康から木刀を抜き去りました。呆然とする家康の前に立った石舟斎は、師匠:信綱を超えようとする面立だったということです。

 

柳生一刀石

奈良県の芳徳寺の東南にある、中央部より真っ二つに割れた巨石です。
柳生石舟斎が天狗と試合中、一刀両断に断ち切ったという伝説が残っています。

柳生一刀石

柳生一刀石

 

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