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駒姫【辞世の句】

武将データ
なまえ こまひめ 駒姫

Wikipediaより

出身 出羽国
家紋 なし
主家 最上家→豊臣家
享年 15歳(1581~1595)

 

駒姫の辞世の句

【罪をきる 弥陀の剣も かかる身の なにか五つの さわりあるべき】

歌意:罪を切って下さる阿弥陀如来様に切られる自分は、極楽にいく上で妨げになるものなど何もない。私は五常においてなにも後ろめたいことなどないのだから。(五常とは仁・義・礼・智・信)

 

駒姫ってどんな戦国武将?

父は山形城の城主最上義光、母は釈妙英です。いとこに伊達政宗がいますが、駒姫自身は戦国武将ではありません。

駒姫は成長するとほどなくして、東国一の美女と称されるほどの美貌をまといます。すると、豊臣秀吉の甥である豊臣秀次に見初められ求婚されます。豊臣の時代が始まろうとしていたこの時代、父、義光はこれを受け入れることに。この受諾こそが、駒姫の悲劇の始まりです。

 

夫:秀次事件

駒姫の人生を大きく左右したのは、豊臣家のお家事情でした。

元々、子宝に恵まれなかった秀吉は、実子ではない秀次を養子として迎え入れ、家督を譲りました。そのとき秀次は関白になりました。最上家からしたら、安泰中の安泰の豊臣家に娘が見初められて、さぞかし喜ばしかったことでしょう。

 

関白就任からほどなく、暗雲が忍び寄ってきます。

秀吉の側室、淀殿が懐妊したというのです。そして無事出産にまで至り、秀吉としては待望の実子(秀頼)が生まれます。この上ない喜びではありましたが、この時はしっかりと秀次のことも考え、「日本国を五つに割り、四つを秀次へ一つを秀頼に」という発言記録とともに、次代を継ぐ2人に盤石な体制を用意しようとしました。また、秀次の娘と秀頼を結婚させようとも思っていたそうです。

 

しかし、どこからともなく湧いて出た秀次謀反画策の知らせが広まります。一説には、秀吉と秀次の不和なる出来事の起こりや、石田三成首謀の秀次政権交代などがあります。理由は不明なれど、謀反の疑義を晴らそうと、秀次は弁明へ伏見に赴きます。秀吉は謁見を拒否。高野山へ逗留するよう伝えられます。高野山について5日後、なんと賜死の命が下ります。つまり死刑です。高野山の僧である、木食応其が寺法を盾にこの命令から守ろうとしますが、高野山焼き払いのおそれがあると諭され、秀次は切腹を受け入れます。

 

届かなかった助命

秀次の咎に際して、身内も縁座として、子や妻が次々と処刑されていきました。

駒姫は、この秀次事件が起こった時、上京したばかりであり、寝所に入るような時間もありませんでした。このことが明白であることから、前田利家や徳川家康が助命嘆願を行いました。最初は聞きえれなかった嘆願も、側室淀殿の口添えも加わり、秀吉は助命を決断します。

しかし、すでに一族の処刑は決行されている時間です。「鎌倉で尼になるべし」との文を乗せ、早馬を走らせます。そして処刑場まであと一町(110メートルほど)に近付いたところで、間に合わず。斬首させられてしまいました。

ちなみに、斬首の際、駒姫は自らうなじを差し出したと言われています。したためた辞世の句には、無念さと共に、清々しさすら感じられます。15歳という若さでしたが、武家の女性として高潔なまま、人生の幕を下ろしました。

そんな駒姫の墓所は、山形県山形市の専称寺にあります。境内の奥まったところで、ひっそり静かに、平和な時代になったこの世を見つめています。

駒姫 墓

駒姫 墓所

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