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足利義輝【辞世の句】

武将データ
なまえ あしかが よしてる 足利義輝

Wikipediaより

出身 山城国
家紋 足利二つ引き 足利二両
主家 足利家
享年 30歳(1536~1565)

足利義輝の辞世の句

【五月雨は 露か涙か ほととぎす 我が名をあげよ 雲の上まで】

歌意:これは五月雨の露だろうか。それとも私の涙であろうか。
ホトトギスよ、天へと昇り私の名を知らしめてくれ。

 

足利義輝ってどんな戦国武将?

辞世の句から悲壮感が漂っていますが、それもそのはず。義輝は将軍家とは思えないほどの苦労人です。

室町幕府13代将軍。字面は格好いいですが、世は戦国。戦国大名の台頭は幕府の衰退より始まっています。義輝が将軍職を継いだ時には、すでに幕府の権威はほとんど失われていました。

義輝はかつての威光を取り戻そうと織田信長や上杉謙信など、多くの武将と親交を深めていきました。しかし、それを疎んじる者がいました。三好三人衆です。三好三人衆とは機内(京都近辺)で実権を手にしており、京都で奮闘する将軍家,義輝が邪魔でしかありませんでした。

三好三人衆は義輝の殺害を決行します。寡兵しかいなかった義輝はすぐに取り囲まれました。しかし義輝は幼い頃より名うての剣豪に剣術を叩き込まれたため、それはそれは勇猛果敢,獅子奮迅の大暴れをしたといいます。記録によると、将軍家に代々伝わる宝刀を近くの畳に突き刺しておき、寄る敵を片っ端から斬り倒し、刃こぼれしたら刺しておいた刀を抜いてまた暴れたそうです。しかし、数には勝てず、寄ってたかられ押し倒され、動けなくしてから鉄砲で撃たれ、最後に刀でとどめを刺されてしまいました。

将軍家というと何もせず、お茶をすすってるイメージがありますが、義輝は武将顔負けの生きざまを見せつけました。

 

復権叶わずしたその義輝の句には、やりきれなさが詰まっています。

 

墓所

足利義輝に墓所はありません。

しかし毛利輝元が供養墓を建立しています。元々は1598年に豊臣秀吉が亡くなったことを受けて、墳墓と位牌所を作らせたためです。また、前年の1597年に足利義輝と母の慶寿院が三十三回忌を迎えており、足利義昭もこの年に没したことから、併せて4基建立しています。建立を期に、寺の名前を秀吉の法号である『俊龍』から俊龍寺とし、4基が横並びとなり、400余年、人々からの供養を受けています。

足利義輝 墓

右から秀吉、義輝、義昭、慶寿院の墓

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