武将データ | ||
なまえ | いしかわ かずまさ |
Wikipediaより |
出身 | 三河国 | |
家紋 | 石川竜胆 | |
主家 | 徳川家→豊臣家 | |
享年 | 61歳(1533~1592) |
もくじ
石川数正の名言
『徳川の 家に伝はる 古ぼうき 今は都の 木の下をはく 』
歌意:『ほうき』数正の名前『石川数正耆(ほうき)守』にかけている。『木の下』は木下藤吉郎(秀吉)のこと。徳川に仕えていた古株が、今は秀吉に仕えていることを皮肉った句。
石川数正ってどんな戦国武将?
まず、上記の名言は、数正が詠んだ句ではなく、数正に向けて詠まれた句です。
戦国時代の鞍替え
今の時代は、転職もそこまで珍しいことではありませんでしたが、戦国の世では、そこまでありふれていたものではありません。特に、天下人をまたぐ、徳川家から豊臣家への鞍替えは、石川数正ただ一人であるといわれています。
数正は家康が幼少のころから仕えていた、家康一番の家臣ともいえるほどの人物でした。また、成長していくにつれ、内外をさばける無二の外交役としても活躍していきます。
そんな家康に忠を尽くしていた数正の出奔。諸説ありますが、真相は分かっておりません。天下人を裏切ったので、悪いことが書かれがちな石川数正ですが、ここでは良い観点から伝わる説を紹介したいと思います。
出奔の理由
数正は何よりも家康のことを考えて行動する男でした。
家康の今川家人質時代ころからの付き合いのため、お互い特別な存在でもありました。
数正の出奔(豊臣側に行くこと)の時期は秀吉が天下統一した後の話です。秀吉が最も恐れていたのは家康でした。秀吉は家康を京都から遠ざけるため、また土地開拓のため、江戸へと移動させます。
これまで、色々と秀吉にしてやられてきた家康は挙兵を考えていました。本田忠勝らは賛成しましたが、ただ数正だけは反対しました。兵力の差、新地江戸での民がまだ家康に慣れていないなどの理由からです。本当にここぞという時でしか攻めてほしくなかったのでしょう。しかし、家康は数正の反対を押し切り挙兵を決めます。
そんな折、和正は突然出奔します。これは徳川陣に大きな衝撃でした。数正に外交の他、軍の戦法も任せきりであったのと、何より秀吉に徳川家の機密事項がばれかねないからです。
秀吉も数正の突然の出奔に驚き、スパイじゃないかと勘ぐりましたが、徳川攻略につかえると思い受け入れます。
しかし記録では数正は徳川の重要機密を漏らしたというようなことはなかったといいます。
一方徳川は数正の出奔により、秀吉に知られているかもしれない戦法を変えなければならず、兵の教育に時間がかかってしまいました。
見事数正はその身をもって徳川の侵攻を止めることができたのです。
唯一の再開
そうしてまた月日が流れていきました。これはまだ軍備の増強に躍起になっていった頃の出来事です。
家康は数正と再会しました。これは数正出奔後、ただ1度だけの再開でした。家康の妻の命日の墓参りの時です。
この時はすでに、家康は当時の数正の本意を知り、強く数正を呼び戻そうとしましたが数正は自分は裏切り者だから,と、決して首を縦に振らなかったそうです。
お互いの立場もあり、その後連絡を取ったという記録は何も残っておりません。年月を経ても、会うことは無くとも、心のどこかではずっと繋がっていたのかもしれません。