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快川紹喜【辞世の句】

武将データ
なまえ かいせん じょうき かいせんじょうき 快川紹喜

Wikipediaより

出身 美濃国
家紋 なし
主家 なし
享年 ?(?~1582)

 

快川紹喜の辞世の句

【心頭滅却すれば 火も自ずから涼し】

歌意:どのような窮地にあっても,境地に達すれば困難なものなど何もない。ただ安らかなものである。

 

快川紹喜ってどんな戦国武将?

まず、戦国武将ではありません。戦国時代の生まれではありますが仏僧です。有名な辞世の句を詠っているので書かせていただきました。

 

永禄別伝の乱

元々は美濃の生まれといわれており、崇福寺という寺の住職でした。しかし、当主の斎藤龍興が妙心寺の別伝宗亀という僧を厚遇し、別伝のために建立した伝灯寺をします。それだけなら良かったのですが、「諸寺諸僧の籍並びに妙心寺への手続きを一手に行うものとする」という布告が流れます。この一方的な要求に、快川紹喜は尾張国へと移動します。これに呼応するように、妙心寺派の僧侶が一斉に国外に退去します。

「永禄別伝の乱」と呼ばれる宗教紛争に発展し、快川が本山の妙心寺に先の布告があったことを伝え、これを不法とみなし別伝を除籍する決定を下します。

龍興は別伝を庇い、朝廷や足利家からも綸旨りんじを引き出させ、妙心寺の立つ瀬を失くしてしまいます。しかし、ほどなくして龍興が急死することで、一気に幕引き。後ろ盾を失くした別伝が逃げ隠れることで騒動が収まります。

 

ちなみに騒動の中で、快川は龍興から帰国命令を出されています。この返書として『美濃の当主といえ、一国の主であるに過ぎぬ。我々僧侶は世界に通じる真の道を伝える者である。そんな比較にならない広さがあるので、我々が帰ることなどない』と記し、NOを突きつけます。

当時は、一国の当主に僧侶個人が牙を向くことはあり得ないことで、この乱において、快川の名声はうなぎ上りに知れ渡っていくこととなりました。

 

信玄の師となる

その名声は、甲斐国へも知れ渡り、武田信玄から、是非来てほしいと頼まれ、武田家の菩薩寺である恵林寺の住職となります。信玄は快川から禅の教えを学び、また、軍事の相談役としても重宝されました。織田信長が龍興を攻め入った時も、武田と斎藤の橋渡し役として外交僧になり同盟を締結します。信玄は快川を非常に厚遇し、寺領を加増したり、恵林寺を廟所とすることなども決めていました。実際に信玄が死没した後は、遺言にあった死を3年伏せた後、恵林寺で盛大な葬儀が執り行われます。もちろん、導師は快川国師でした。

 

織田家からの攻勢

信玄と深いつながりをもっていたからこそ、信長からは目を付けられた存在だったと考えられます。信玄の死後、勝頼が次々と家臣に裏切られて死地へ追い込まれていくと、武田家の菩薩寺である恵林寺に目を向けられます。快川を有能な士として、味方に引き入れようとしますが、これを拒否。

信長の怒りを買い、さらに信長の敵勢力である六角氏を寺に匿ったことにより、軍を率いて恵林寺を取り囲んでしまいます。

 

燃える山門の中で

快川は150人ほどいたとされる僧侶たちを寺の二階に押しやり、廊下から山門にかけて、刈った草を積み上げて火を放ちます。

炎につつまれ、僧たちが苦しみの声を挙げる中で、快川はじっと座ったまま、身動き一つせず、辞世の一説を詠い、焼かれていったと言います。

 

ちなみにことわざにある『心頭滅却すれば火もまた涼し』は、この言葉を短く読み間違えてしまったものであると言われ、また、この言葉の語源は快川ではなく、中国の仏教書である『碧巌録』にある一節ということです。

 

兎にも角にも、権力者に媚びず、己の道、仏の道を全うした姿は戦国武将にも負けていないと思います。

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