武将データ | ||
なまえ | みうら よしかた(じっきゅう) |
Wikipediaより |
出身 | 阿波国 | |
家紋 | 三階菱に釘抜 | |
主家 | 細川家 | |
享年 | 36歳(1527~1562) |
もくじ
三好義賢の辞世の句
【草枯らす 霜又今朝の 日に消えて 報いのほどは 終に逃れず】
歌意:草を枯らす霜も、朝になったら草の報いを受けたように消えてしまうものだ。(戦国の世になぞらえて詠っている。何人もの人を殺めてきたのだから、いつか私も報いを受け殺されるのだという意。)
【草枯らす 霜又今朝の 日に消えて 因果はここに 廻りに来けり】
歌意:草を枯らした霜も、朝には報いを受けたように消えてしまう。因果とはこのように巡るのだなぁ。
三好義賢ってどんな戦国武将?
不名誉な記録
四国一円を治めていた武将です。正確には当主の弟とというポジションです。
主に政治外交をしていました。
いきなり享年の話をしてしまいますが36歳で亡くなっています。
なぜこんな話をするかというと、義賢は名のある武将で、初めて鉄砲で討ち取られた武将という記録が残っているからです。
武士としてはなんとも不名誉な記録ですね(´・ω・)
一応フォローしておくと義賢の死後、三好衆はあれよあれよと崩されていきます。これは義賢が弟というポジションにありながらも、存命時は優れた統率を奮っていた証ということです。
妙国寺を建立
義賢は文化への造詣が深い事でも名が知られています。
仏教の日蓮宗の本山でも知られる妙国寺(大阪府堺市堺区)を建立しており、これは日珖という僧に帰依したことから始まりました。しかし、妙国寺を創建したはいいものの、完成しきるまえに義賢が戦死してしまったため、未整備の状態がつづいたとされています。