新着記事

名言 辞世の句

毛利元就【名言と辞世の句】

武将データ
なまえ もうり もとなり 毛利元就

Wikipediaより

出身 安芸国
家紋 長門抱き沢瀉長門抱き沢瀉 長門三つ星 長門三つ星
主家 毛利家
享年 75歳(1497~1571)

 

毛利元就の名言

『この矢一本なれば 最も折りやすし。しかれども一つ束なれば折れがたし。汝、これを鑑みて、一和同心すべし』

意:この矢は一本だとすぐに折れてしまう。しかし束になればなかなか折れない。これを見習い、お前らも心を一つにし臨むと良い。(ことわざ:三本の矢の語源)

 

 

毛利元就の辞世の句

【友を得て なおぞうれしき 桜花 昨日にかはる 今日の色香は】

歌意:友を得られたことがとても嬉しい。今日の桜の色香が昨日と違うように、(友を得られた)今日はまた違った1日となるだろう。

 

 

毛利元就ってどんな戦国武将?

三矢の教へ

西日本最大の戦国大名、毛利元就の紹介です。まず三本の矢についてですが、元就自身は「三本」という言葉を口には出していません。
なぜそのように言われているのかというと、この言葉を伝えた相手が三人の息子に対してだからです。
ちなみに当時はこれを『三矢の教へ』といったそうです。

 

幼少期から青年期

最終的にはとてつもない所領をもつことになっていますが、元就が青年期のころはほんの小豪族に過ぎませんでした。
もちろん元就の名など無名です。

当時は中国地方にある小豪族、吉川、小早川、平賀などと小競り合いをしておりました。

毛利をふくめた小豪族が争うこの地は、もともとは武田氏の所領でした。いつ旧領をとりかえそうかと虎視眈々としていた折、幕府が武田氏に中国地方紛争鎮圧の命令を出します。
これを好機とした武田氏は、吉川の有田城へと出陣します。

隣国が侵攻されるという緊張状態の毛利家に更なる不幸が訪れます。当主、毛利興元の死です。次代の家督を継ぐ幸松丸は2歳。こんな好機があるものかと、間違いなく侵攻されます。

 

初陣から当主になるまで

元就は幸松丸の後見人となっており、現在の実質的な指揮官でした。この窮地を脱すべく、元就は動きます。有田城を救援すべく、亡き興元の弟、元就の出陣です。

ちなみに当時元就21歳、これが初陣です。

救援へと駆けつけますが、所詮地方の小豪族、吉川の援軍とくっついてやっと1000というところ。しかし敵兵は4000。かなり厳しい戦いです。

元就は初陣とは思えないぐらいの采配を発揮しますが、多勢に無勢。後退、退却と続き、やがて敗走してしまいます。

ここで勢いあまったのか、敵大将、元繁が追撃を始めます。ただの追撃ならばいいのですが、大将が前線まででてくるという深追いも甚だしい状況でした。

そんな中、最前線を飛び交う矢が元繁の元へと刺さります。これにより元繁は落馬。味方の将兵が急ぎ元繁に切りかかります。

そうして高々と声が上げられました。
『敵将、元繁。討ち取ったり~』

 

結果としては、元就は華々しい初陣を飾ったわけですが、もう完全に運が良かっただけです。

この戦果はたちまち広まり、元就の名が世に知れ渡りました。
そしてこの戦は、少数の兵で大軍を撃ち破ったことから『西の桶狭間』と呼ばれています。

この戦より7年後、幸松丸が病死。家督争いを勝ち抜き、元就は見事毛利家の当主となります。

 

西国の雄

その後、紆余曲折を経て中国の大大名と成り上がります。

ではなぜ『西国の雄』とも呼ばれた元就は、天下を目指さなかったのでしょうか。

答えは簡単です。文字通り目指していなかったのです。

元就は天下を狙える勢力であることはわかっていました。
しかし、無理に天下を獲っても長続きせず、最悪家が滅びるのではないかと考えていました。

それならばと、己が程をわきまえようと内政に力をいれ領土の地盤を固めていきました。

一揆の勃発など悩みの種は尽きませんでしたが、毛利家の行く末を案じながら、75歳でこの世を去りました。

↓よろしければクリックをお願いします。

-名言, 辞世の句
-

Copyright© 戦国武将〜辞世の句・名言から生き方を学ぶ〜 , 2022 All Rights Reserved.