武将データ | ||
なまえ | りゅうぞうじ たかのぶ |
Wikipediaより |
出身 | 備前国 | |
家紋 | 日足紋 | |
主家 | 少弐家→大内家→毛利家 | |
享年 | 56歳(1529~1584) |
もくじ
龍造寺隆信の辞世の句
紅炉上一点の雪
歌意:煌々と燃える炉の上に1点の雪をおいてもすぐ溶けるように、私の煩悩もきれいさっぱりと消えていることだ。
龍造寺隆信ってどんな戦国武将?
暗殺されかけた少年期
龍造寺隆信の生まれは本家ではなく、分家の佐賀水ヶ江である曾祖父:龍造寺家兼からの家筋でした。しかし、隆信が生まれる頃には、本家を上回るほどの勢力となっていました。
隆信は、幼少期より大叔父の和尚の元で育てられ、そのまま7歳で出家し、名を圓月といいました。
少年期は腕力が強く、戸を閉めた隆信に対し、6.7人がかりで開けようとするも、力で抑え込むという怪力を見せつけました。また、12歳頃から、頭脳の聡明さも目立ち、知識を取りいえることにも貪欲だったといいます。
1545年、隆信が16歳の時に事件が起きます。父:家純と祖父:周家が、主君の少弐冬尚に謀反の疑いを掛けられて殺されてしまいます。反抗の疑いの目は隆信にも向けられますが、曾祖父:家兼によって辛くも脱出に成功します。
家兼は筑後の蒲池氏を頼って逃げ延びます。そのまま蒲池氏の援助を受けて挙兵し、父と祖父の仇であった馬場頼周を討ち取ることに成功しました。龍造寺家再興の狼煙が上がる中、命の恩人ともいえる家兼が亡くなりました。元々、逃避行の頃より齢は90を超えており、何とか曾孫に道筋をつけんとする一心で現世に踏みとどまっていたともいえる大往生でした。
曾祖父の遺言と天運
家兼の遺言の一つに、隆信の還俗と家督相続がありました。力も智も備える隆信に、未來を感じたからです。
しかし、龍造寺一族の中では、家督相続について意見が割れてしまいました。困った時の神頼みと、八幡宮に赴き、クジをひくことにします。すると不思議なことに三度引いても隆信を選びます。この結果に一族は納得し、晴れて隆信は家督を継ぐこととなりました。
1547年、本家である龍造寺胤栄の命を受け、主君である少弐冬尚を襲撃し、城から追放することに成功します。この成果に誰もが認めることとなりました。さらに翌年、胤栄が亡くなり、その未亡人の娘を正室に迎えたことにより、本家の龍造寺の家督も継承することになりました。
安定しない龍造寺家
分家の者が、本家の家督を継ぐことはあまり見られることではありません。実際に、この家督継承に不満をもつ者がいました。本家の旧臣です。旧臣のリーダーは土橋栄益といい、土橋氏らとの内紛が始まります。
隆信は周防国の大内義隆を後ろ盾とし、不満を抑えようとしますが、義隆が家臣のクーデターに遭い戦死。後ろ盾を失くしたことで、内紛が再発し、備前を追われてしまいます。
窮地に頼れるのが、幼少期に助けられた蒲池氏。内紛から2年後、1553年に蒲池氏の力を借りながら備前を取り返すことに成功します。
この頃、隆信の母の慶誾尼は、家臣の鍋島家に嫁ぎます。それにより、鍋島直茂という男が、家臣兼義兄弟となりました。直茂は優秀な武将であり、逃げ延びていた少弐氏を追い詰めることに成功します。これにより、備前の東側の支配権を確立することになりました。
この後も大友宗麟に狙われますが、直茂の奇襲作戦が功を奏し、大友勢を退かせることに成功しました。
また、九州の覇権は、【島津】【龍造寺】【大友】の三氏のいずれかであろうという勢力図がありましたが、1578年に大友宗麟が島津義弘に敗れたことをきっかけに、九州の勝者は島津or龍造寺となりました。
横暴な振る舞いと因果応報
少年期より、腕にものを言わせて粗野な振る舞いが目立っていた隆信ですが、当主になっても直るどころか、悪化させていきました。
1580年、宿敵である島津に通じているという知らせを受けます。それは2度の援助を受け、大恩ある蒲池氏でした。この疑義に隆信は、当主どころか、一族もろとも皆殺しにしてしまいます。
傲慢な性格で、ただでさえ薄い人望でしたが、また一つ家臣の心が離れていきました。
そんな中でも、見捨てなかったのが義兄弟、鍋島直茂でした。
我が気に入らぬことが、我がためになることなり。
直茂必死の忠言でしたが、酒におぼれる隆信は聞き入れることがありませんでした。
1584年、九州の雄を決めるといって過言ではない、沖田畷(おきたなわて)の戦いが起こりました。龍造寺軍は2万5千。島津軍は6千。4倍もの兵力の差に、圧勝を確信する隆信。
ちなみにこのころの隆信は酒におぼれるだけでなく、運動不足も祟り、馬に乗れなかったとされ、輿での移動をしていました。
鍋島直茂から「島津は油断してはいけない。肝に銘じてください」と諫言されるも、隆信は相変わらず聴く耳を持ちませんでした。
戦が始まると、戦局が一気に動きます。島津軍が負けたふりをして退却を始めると、龍造寺軍は追撃を始めます。ぬかるみの多い湿地帯に誘い込まれたところで、島津伏兵の銃撃に遭ってしまいます。島津家得意の戦法、釣り野伏です。湿地に足を取られ、奇襲にパニックを起こした龍造寺軍は為す術なく崩壊。
本陣の兵どころか、輿の担ぎ手さえも逃げ出して、隆信は一人取り残されてしまいます。間もなく島津兵に囲まれ首を取られてしまいます。
人のいうことに耳を貸さず、また信じなかったことへのツケが回った。隆信は、あっけない最期で人生の幕を下ろしました。
九州の覇権争いに敗れたことで、義兄弟の鍋島直茂が引き継ぎました。隆信と違い、真っ当な直茂は、実直な政務の元、備前佐賀藩(鍋島藩)の礎を築くこととなります。
墓所
龍造寺隆信の墓所は佐賀県の高傳寺にあります。
鍋島家の菩提寺でもあり、隆信と直茂は同じ地で眠っていることになります。隆信と直茂は、墓の中で互いにどう思っているのか、気になるところです。